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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(231)

2025年8月22日

 筆者が、

 「森田を標的に選んだのは何故か? 踏み絵の件か?」

 と訊くと、押岩は、この時も深く頷いた。

 当時、DOPSでの拷問(御真影を足で踏ませた件)に関する情報がキンターナまで届いていたのである。

 森田芳一には、無論、言い分があったであろうが、筆者が本稿の取材を始めた時点では故人になっていた。夫人に訊こうとして、そのアパートを訪問したことがある。が、

 「当時のことは話したくない」

 と門前払いを食わされた。

 ここで、また息抜き代わりの余談になるが。━━

 右の押岩の話の中に出てくるサンターナ、この名は前章で一度出ているが、不思議な人物であった。 

 本名はジョゼー・サンターナ・ド・カルモといい、バイアーノであるが、日本語の天才といわれた。

 十六、七歳の頃ノロエステ線の何処かの邦人の植民地で働いている時、日本語を覚えたという。

 その習熟度は、周囲を驚嘆させた。それを知って本格的に教えた日本語教師がいた。

 サンターナは植民地の日本人の子供たちに、ポルトガル語を教えたことがある。その折、日本語で、

 「加賀の千代の俳句『朝顔に つるべ取られて もらい水』は、どういう意味ですか?」

 と回答を求めて、子供たちを面食らわせた。

 サンパウロ日本総領事館で試験を受けて、公証翻訳人の資格を取得していた。

 連続襲撃事件は、森田義弟誤殺を最後に絶えた。

 その理由は、色々考えられる。警察と敗戦派の自警団の反撃に、追い詰められ、決起する人間が種切れになっていたこともあろう。

 翌二月、次項で触れるが、臣道連盟の名義解省宣言なるものが出たためかもしれない。解省は解消のことであろうが、この名義解省宣言が解散宣言と受け止められ、戦勝派の士気を阻喪させたことは十分考えられる。

 さらに、その頃、邦字新聞が再刊されたことも影響していたであろう。活字は妙に人の気持ちを落ち着かせる。

 臣道連盟、解散?

 押岩嵩雄は拘置所で、臣道連盟の吉川理事長や根来専務と会った。

 二人はアンシエッタに流されていたが、病気のため、ここへ移されていた。

 押岩談。

 「吉川さんは、我々が前の年、臣連の本部を訪ねた時のことを思い出して、

 『こういう人間が出てきたのか…ひょっとしたら本気でヤルかもしれない、と思った』

 と話していた。

 ワシがオールデン・ポリチカでの取調べで、自分を指揮者ということにしておいてくれ、と言ったことを知ると、

 『生涯、出られないかもしれないが、いいのか?』

 と聞くので、

 『結構です』

 と答えておいた。

 吉川さんは、臣連の理事長を引き受けた時、軽い気持ちで立ち上がったようだった。それが大事(おおごと)になってしまったわけだ。

 立派な人だった。

 吉川さんは、ここで臣連の解散宣言をした」

 この宣言は、前記の名義解省宣言のことである。

 その時、配布された宣言書の日付は一九四七年二月十一日となっており、吉川と根来が署名している。内容は長文に渡るので略すが、要するに、

 「臣道連盟を名乗る団体が存在することは、ブラジル国民の誤解を招くのみならず、敗戦派との対立感情をますます強める」

 というのが主旨であった。

 宣言をしたのは、連盟本部に残って居った職員の朝川甚三郎が拘置所を訪れ、こう訴えたからである。

 「臣連の名義を継続すると、同志は官憲の圧迫により犠牲を重ねるばかりであり、この急場を一時、名義の解消によって救って欲しい」

 が、実はこれは、便宜的措置とする含みを持たせていた…という観方もある。名義解省というヘンな表現を使ったのは、そのためかもしれない。しかし何故か「臣道連盟解散」として広く伝わった。(つづく)


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