ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(231)
筆者が、
「森田を標的に選んだのは何故か? 踏み絵の件か?」
と訊くと、押岩は、この時も深く頷いた。
当時、DOPSでの拷問(御真影を足で踏ませた件)に関する情報がキンターナまで届いていたのである。
森田芳一には、無論、言い分があったであろうが、筆者が本稿の取材を始めた時点では故人になっていた。夫人に訊こうとして、そのアパートを訪問したことがある。が、
「当時のことは話したくない」
と門前払いを食わされた。
ここで、また息抜き代わりの余談になるが。━━
右の押岩の話の中に出てくるサンターナ、この名は前章で一度出ているが、不思議な人物であった。
本名はジョゼー・サンターナ・ド・カルモといい、バイアーノであるが、日本語の天才といわれた。
十六、七歳の頃ノロエステ線の何処かの邦人の植民地で働いている時、日本語を覚えたという。
その習熟度は、周囲を驚嘆させた。それを知って本格的に教えた日本語教師がいた。
サンターナは植民地の日本人の子供たちに、ポルトガル語を教えたことがある。その折、日本語で、
「加賀の千代の俳句『朝顔に つるべ取られて もらい水』は、どういう意味ですか?」
と回答を求めて、子供たちを面食らわせた。
サンパウロ日本総領事館で試験を受けて、公証翻訳人の資格を取得していた。
連続襲撃事件は、森田義弟誤殺を最後に絶えた。
その理由は、色々考えられる。警察と敗戦派の自警団の反撃に、追い詰められ、決起する人間が種切れになっていたこともあろう。
翌二月、次項で触れるが、臣道連盟の名義解省宣言なるものが出たためかもしれない。解省は解消のことであろうが、この名義解省宣言が解散宣言と受け止められ、戦勝派の士気を阻喪させたことは十分考えられる。
さらに、その頃、邦字新聞が再刊されたことも影響していたであろう。活字は妙に人の気持ちを落ち着かせる。
臣道連盟、解散?
押岩嵩雄は拘置所で、臣道連盟の吉川理事長や根来専務と会った。
二人はアンシエッタに流されていたが、病気のため、ここへ移されていた。
押岩談。
「吉川さんは、我々が前の年、臣連の本部を訪ねた時のことを思い出して、
『こういう人間が出てきたのか…ひょっとしたら本気でヤルかもしれない、と思った』
と話していた。
ワシがオールデン・ポリチカでの取調べで、自分を指揮者ということにしておいてくれ、と言ったことを知ると、
『生涯、出られないかもしれないが、いいのか?』
と聞くので、
『結構です』
と答えておいた。
吉川さんは、臣連の理事長を引き受けた時、軽い気持ちで立ち上がったようだった。それが大事(おおごと)になってしまったわけだ。
立派な人だった。
吉川さんは、ここで臣連の解散宣言をした」
この宣言は、前記の名義解省宣言のことである。
その時、配布された宣言書の日付は一九四七年二月十一日となっており、吉川と根来が署名している。内容は長文に渡るので略すが、要するに、
「臣道連盟を名乗る団体が存在することは、ブラジル国民の誤解を招くのみならず、敗戦派との対立感情をますます強める」
というのが主旨であった。
宣言をしたのは、連盟本部に残って居った職員の朝川甚三郎が拘置所を訪れ、こう訴えたからである。
「臣連の名義を継続すると、同志は官憲の圧迫により犠牲を重ねるばかりであり、この急場を一時、名義の解消によって救って欲しい」
が、実はこれは、便宜的措置とする含みを持たせていた…という観方もある。名義解省というヘンな表現を使ったのは、そのためかもしれない。しかし何故か「臣道連盟解散」として広く伝わった。(つづく)