ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(233)
右の記事の内容は、前章で記したことと違う箇所がかなりあるが、ここではそれは措いて松家という男に話を絞る。
さて、この通りであるとすると、松家は大変な大物ということになる。「ノロエステ全線に『血の旋風』を巻き起こしたテロ団の首領」だという。(ノロエステ全線とはノロエステ線地方全域の意味であろう)
とすれば、連続襲撃事件を追究する上では、見落とすことのできない特筆すべき存在となる。
そこで筆者は、松家元助を詳しく知ろうとした。
その結果、まず何かの関連記事の中に「戦勝派の指導者に、松家元スケという男がいた。が、表には出て来なかった」と一行だけあるのが見つかった。
次いで前章で名の出たブラウーナ出身の鳴海忠夫に会った時、訊ねてみると、こういうことを話してくれた。
「松家…松家ナントカいう名前だった。剣道を教えていた。ワシも指導を受けたことがあるが、四十代で頭の切れる人だった。あの地域の戦勝派の頂点に立っていた。が、臣道連盟とは関係なかった。逮捕されたかもしれないが、受刑したという話は聞いていない」
これは貴重な証言だった。松家は臣連とは「関係なかった」というのだ。
鳴海は当時、ブラウーナの栄拓植民地で暮らしており、この地域の臣連には精通している様子だった。松家もここに居た時期がある。(十年史のグリセリオは、それ以前の居住地)
さらに筆者が別の仕事で取材中、松家の名前が突如飛び出してきた。
松家の遺族やごく近い親戚の三人の婦人の口からである。
以下は、その断片的な話をまとめたものである。
松家元助は一九〇一(明34)年、香川県大川郡石田村、現在のさぬき市で生まれた。
若い頃、剣道を学び何段かの腕であったという。志願して軍隊に入りシベリアに渡った。
そのシベリアで射撃の腕を磨いた様で、後年、ビリグイの何処かで猟をした時、野生の鹿を一発で仕留めたという。
ブラジルに渡航したのは一九二八年で二十七歳の時だった。それに先立ち、同村の娘(18歳)と結婚、その弟(12歳)を養子にし、三人で移民船ハワイ丸に乗った。
ブラウーナの栄拓植民地で松家は棉の栽培をしていたが、一方で若者たちに剣道を教えていた。
陸軍中佐だったと自称したというのは、後年のことであろうが、二十代で移住して…つまり退役して中佐ということはあり得ない。
また棉の栽培をしていたというが、右の三婦人の話によると、松家の夫人がうどんを作って商店へ卸したり、植民地の子供たちに日本語を教えたりしていた。
生計のためであった。松家の稼ぎでは不足だったのだ。
夫人は人柄が良く聡明な女性だったという。
その後、松家は日本に行き、郷里から何人かの男女を移民として連れてきた。ところが、政府から出た筈の支度金が本人たちに渡らなかった。松家に良くない疑いがかかった。
ブラウーナでは、養子が、松家を好まず家を出ている。
一九四五年、終戦直後、松家は「日本は絶対負けてはいない。勝っている」と主張、敗戦認識を説く知人の言葉には耳を貸さなかった。
剣道を教えていた若者たちにも、その勝利の信念を吹き込んでいた。
翌年七月以降、ノロエステ線地方で、襲撃事件が頻発した。前章で記した通り、その数はかなり多い。
十年史の通りだとすると、松家は、その指揮をしたことになる。
しかし三婦人の話によると、松家はその時期、ブラウーナにもノロエステ線地方にも居なかった。
襲撃事件が始まった時、歩いて脱出した。警察から自分に嫌疑がかかっていることを知り、逃げたのだ。
歩いて脱出したのは、鉄道の駅に張り込んでいる警官や彼らに(戦勝派の日本人を見分けるため)付き添っている敗戦派の目を晦ますためであった。
そして、なんと北パラナまで高跳びしていた。
松家の不在中、夫人は警察に拘引・留置された。日本語を子供たちに教えていたという理由によるものだった。(この時期、日本語教育は未だ禁止されていた)
が、それは名目で、松家の行方を追及するのが目的だった。しかし彼女は知らなかった。
北パラナで、松家はアサイのセボロンという所に居った友人を頼っていた。そこでは吉田と名乗った。(アサイ=四章で触れたブラ拓の移住地トゥレス・バーラスの後の名称)(つづく)