ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(274)
その知人たちから日本総領事館に相談があり、さらにコロニアの主だった人々が協議、DOPSに処理を依頼した。(公証翻訳人森田芳一が仲介した)
そして一月四日のDOPSの刑事の出動となったのである。
この時、刑事たちは、漆畑ら七人を拘引した。
七人はDOPSで、取り調べを受けたが、加藤について、こう供述した者も居た。
児玉金造「加藤を朝香宮と信じている。彼の命令があれば、誰でも殺すし、死ぬ」
野村弘道「加藤を朝香宮と信じている。加藤が死ねといえば喜んで死ぬ」
ことを重視したDOPSは、サンパウロ市内にある加藤の本宅、妾宅、彼ら一味の集会所も家宅捜索をした。
本宅は豪邸、妾宅はモダンな家屋、集会所も立派な建物であった。
加藤はDOPSの農園急襲の直後、逐電していた。
刑事たちは書類を押収、妻妾、同居者ら七人を拘引した。
その同居者の中には(前章で記した)連続襲撃事件に参加、仮釈中に行方を晦ました北村新平がいた。こんな所に潜っていたのである。
DOPSは参謀役の川崎も捕らえようとしたが、これも自宅から姿を消していた。
刑事たちは二人を追った。
偽宮騒動 ➁
以下は、当時の邦字紙の記事や関係者の話を基にまとめた加藤、川崎の素性である。
加藤は一九一三(大2)年の生れで、本籍は宮城県遠田郡北浦村という所であった。
この郡内に小牛田市があるが、加藤家は小牛田名物の駅弁の製造元で、ホテルも経営していた。かなり知られた存在だったようである。
加藤は、そこの次男であった。が、中学時代から私生活は乱脈を極め東京、樺太、満州を転々としながら、常軌を逸した暮らしを続けた。実家からは勘当同然の扱いを受けていた。
一九四一年、二十七歳の時、移民として妻カオルと共に渡伯した。が、生活に窮して妻をコンデ街(サンパウロ市内日本人街)に在った料亭の女給に出した。後に離婚したが、カオルは加藤を、
「性格的に恐ろしい面を持っていることが判った」
と話している。
離婚後、加藤はカメラ一台を抱えて写真屋として地方回わりをしたり、サンパウロの中央市場で蔬菜洗いをしたりしていた。が、いつの間にかペテン師として知られるようになった。
偽宮騒動が表面化した一九五四年、四十歳。
川崎三造は福島県の産で、商業学校を出て、一九二一年、東京の日本貿易会社に入社、リオ支店の社員として、派遣されてきた。進出企業の派遣社員だったわけだ。
ところが、翌々年、関東大震災で日本の本社が解散、リオ支店も閉鎖した。川崎は現地退職、サンパウロに移り、邦人の一商店に勤務した。
その後、債券売りを始めたが、度々、人を引っ掛け、顰蹙を買うようになる。
やがて「インチキなら何でもやりかねない男」という風評をとるまでになった。(つづく)









