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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(298)

2025年12月2日


展覧会は、四月末から翌月にかけ五日間開かれ、開会式には農務大臣や州知事が出席、市民三五万人が入場するという盛況となった。

その頃、下元は激務が続いていた。難事を幾つも抱えていたのである。ために、高血圧が昂進していた。心臓も悪かった。

難事というのは、例えば、組合員や役職員の風紀の乱れである。コチアの主力生産物のバタタは投機的作物であったせいか、バタテイロは、よく呑みよく遊んだ。自然、呑み屋の女給たちとの艶ダネが流れていた。

それは組合内部にも伝染した。しかも幹部役職員と女性従業員であることも少なくなかった。

下元が、

「コチアは女郎屋じゃないゾ!」

と激怒したことがある。

下元自身は、滅多に呑み屋にも行かなかったし、身辺に女性に関する噂も残していない。が、見習わぬ人間が多かった。

コチア青年にも、問題が起こっていた。就労先から逃げ出す者、ノイローゼになって異常な言動をする者、盗癖のある者、性的異常者、身体虚弱者などが混じっていたのだ。

「日本側の選考の曖昧さは、青年自身の口から漏れている。こちらに鑑別所をつくるわけにもいかないし…」

と、下元は苛立っていた。

最初、就労先を逃げ出す者が出た時には、邦字紙に捜索のための広告を出し、その中で本人に叱声を浴びせるほどの激しぶりだった。が、実情は、その程度では済まぬことが判った。

日本での青年の募集と選考は、全中(全国農業協同組合中央会)を通じて、市町村の農協に委嘱していた。その一部の選考が怪しかったのだ。

結局、不適度の高い六人を日本向け送還することになった。一九五七年の七月のことである。

移民課長の山中弘は、

「本当は、そうしたい人間が二〇人位いる。一村でも名うてのワルを厄介払いのため、こちらに送っている」

と苦り切っていた。

この山中は十二、三章で登場した。その後、サンパウロに転住、コチアに入っていた。

下元は同時期、産業開発青年隊のことで、総領事とも喧嘩をしている。

これは、やはり彼が手掛けていた日本からの青年移民(建設省派遣)で、コチアではなく、別の団体農拓協を作って受け入れていた。(農拓協=ブラジル農業拓殖協同組合中央会)

さらに下元は、太洋漁業と、そのサントス進出に反対する地元漁民との間に立って、調停に苦労していた。

コチアは、太洋漁業に(進出許可取得のための、政府機関との交渉事で)力を貸していた。

しかしサントスの零細な漁民は、

「そんな大きな会社に出てこられては、自分たちは、ひとたまりもない」

と、組合を作って反対運動を始めた。

組合員の多くは邦人だった。

下元は、その漁協の代表者たちと、コチアの本部で会談中、何かのことで興奮、その直後、苦しみ始め、息を引き取った。

一九五七年九月のことである。五十九歳だった。

戦時中、神経を和らげるために、栽培を始めた蘭は、この日の朝も観賞して家を出たのだが…。

この三年ほど前、評論家の大宅壮一が日本から取材に訪れ、下元に会っているが、その時、こう評した。

「人間には、それぞれ持ち前の一種のボルテージのようなものがあるが、下元さんは、それが常人には見られぬほど高い」

そのボルテージによって発せられる電磁波に感電した人々により、下元は死後、伝説的存在となった。伝説の一つに「死に際」がある。

「組合を守れ」という一言を遺したというのである。いかにもドラマチックである。ところが一方で、それは神格化を狙った作り話だ…とする説もある。

どうでもいいことだが、翌年発行された『農業と協同』の追悼号には、現場に居った人の手記が掲載されており、下元の最後の言葉を文字にしている。

それによれば、会議中、突如、発作を起こし、異常な発汗、嘔吐の中で、本人自身が、

「今度はヤラレタ…後を頼む…皆、元気で組合を盛り立ててくれ…」

と、喘ぎながら言ったという。

組合を守れという、そのままの言葉はない。が、まあ、それに近いことは言っているわけだ。

下元健吉の歴史的意義づけは、明瞭にできる。ブラジルで初めての本格的な産業組合の創立に参加、この国で最大、さらにラ米一といわれるまでに発展させた。

そのコチアはバタタやトマテの栽培、養鶏を一大産業に育て上げた。

コチアに続いて、日系以外も含めて、サンパウロ州だけでも数百、ブラジル全体では無数の産組が生まれた。

従って、ポルトガル語の資料類では、下元は農業・産組史上の大功労者と記録されている。

日系社会史上の事跡について言えば。──

まず戦前は、排日法によって、歴史の歯車が停止した時、産組を台頭させ、歯車を再び回転させた。

産青連運動によって、多くの若者に目標と夢を与え、活力を引き出した。

戦時中は、敢然かつ巧みに対処、危機を突破、その結果、他の産組も救われた。(六、十章参照)

戦後も、産組の先頭に立ち続けた。そして、新社会コチアを創りつつあった。

かくの如くで、その業績は、まことに大である。

従って組合員や職員の間には、敬愛者が多かった。(つづく)


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