ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(300)
宇垣の吉岡に対する同趣旨の手紙は二度、三度と続いた。一九四八、九年のことである。吉岡の脳裏に、永田鉄山の「橋頭堡を築け」という言葉が蘇った。
しかし吉岡は、移民の呼寄せといった類いのことには、門外漢であった。ためにある人物を訪ねた。長谷川武である。
戦時中、海興を追われた長谷川は、この頃、個人事務所を開いて、近親呼寄せ手続きの代行をしていた。
吉岡から宇垣の手紙を見せられ、こう快諾した。
「これは非常に困難な仕事ですが、祖国に対する最後のご奉公として、やりましょう」
その長谷川が思いついたのは「ブラジルは今、農業技術者が不足しているので、日本から招く」という名目で、青年協会の会員を入国させ、しかる後に永住許可を取得させるという便法であった。
長谷川は、その入国許可願いを作成、吉岡の名前でリオの政府機関へ申請した。が、何度、書類を出しても却下される。しかし諦めず、それを数十回(!)続けた。
その度に、吉岡は書類に署名のために足を運んだ。それを気の毒に思ったのであろう、長谷川は、途中から吉岡の署名を〝代筆〟してくれた。ようやく許可がおりたのが一九五一年、青年協会からの最初の渡航者一人がサントスについたのが、翌年四月のことである。
この間、長谷川は吉岡に経費を請求しなかった。以後、四四人が入国した。その多くは吉岡の農場で就労、後に夫々の道を歩んだ。
一九五三年には、関屋龍吉が視察に訪れている。
翌年、吉岡は訪日した。
宇垣は、その頃は参議院議員になっていたが、健康に恵まれず、車椅子生活を余儀なくされていた。それでも、
「どうしても一度、ブラジルの土を踏みたい。土を踏んだら、その場で死んでもよい」
と、訪伯を熱望していた。
吉岡は、しばらくして帰伯のため日本を離れたが、船が米国へ寄港したとき、宇垣の訃報が届いた。
日本青年協会からやや遅れて、海外移住協会という団体が、ブラジル政府筋に、移民受入れを働きかけた。
この時、その政府筋は好意的に対処、近親呼寄せの名目で実現させた。一九五三年一月、五一人の青年がオランダ船チサダネ号で、サントスに着いている。
これに続いたのが、辻移民と松原移民である。パラー州サンタレーンの辻小太郎とサンパウロ州マリリアの松原安太郎が大統領ゼッツリオ・ヴァルガスに直訴、特別許可を得、導入した。(ヴァルガスは一九四五年下野、五一年に返り咲いていた)
ただし、この二人は互いに関係はない。別々に動いていた。
辻は、上塚司の下で高拓生の世話役を務めた人物、松原はマリリアの実業家であった。
辻移民はアマゾン、松原移民はマット・グロッソ、バイアの国・州有地に入植することになっていた。
その第一陣が、一九五三年に到着している。三月に辻移民が五四人、七月に松原移民が一一二人である。
数年後の合計で、辻は二、〇〇〇人、松原は一、二〇〇人となった。(別の数字を上げる資料もある)
この両者の導入方法は、計画移民と呼ばれたが、サンパウロ州でも、これをやろうと、動き始めたところがある。産組中央会で、戦後衰退していた養蚕業の復興のため、その経験者を組織的に、日本から招こうとした。
が、これには、リオの移植民審議会が難色を示した。理由は、コチア青年の場合と同じである。
対して中央会のピーザ理事長たちは別組織「パウリスタ養蚕協会」を設立、養蚕業の復興を望む州政府の意向を利用して、政治折衝を進めた。
結局、これも大統領の特別裁断で、二百家族の導入枠が許可された。一九五四年から入国し始め、五九年までにその枠の殆どを消化した。
引き続き五百家族の枠が許可されたが、応募者が無くなり、途中で打ち切られた。
計画移民とは別にいわゆる「自由移民」も始まった。
これは家族単位の呼寄せ方式である。こちらは、手続きが次第に簡単になり、移住者数は増加、計画移民より多くなる。
一方、日本側では戦時中に解散した海外興業の代わりに、一九五四年、外務省系の財団法人として日本海外協会連合会、通称海協連が設立された。
ここは移住者の募集、選考、送出、現地での受入れを管轄した。
しかし、これらの戦後移民に関しては、その到着後、少なからぬトラブルが発生した。
海協連が扱った辻、松原の両移民の場合は深刻で、被害者がその恨みを今日もなお、語り続けているほどである。
入植地は、原生林や僻地の未開発地にあり、生活・営農の条件が苛酷すぎた。日本から来た人間が適応できるような所ではなかったのだ。入植者は命からがら逃げ出し、それすら出来ない者が残留…という悲惨な有り様となった。(つづく)









