ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(301)
一九五五年、その代表的事件が起きた。内容は、日本で出版された若槻泰雄著『外務省が消した日本人』に詳しい。
同年一月、アマゾン中流の植民地に入植する予定で、ブラジル丸で渡航した辻移民が見舞われた災難である。
彼らは、長い航海を終えてベレン沖合に着いたとき、出迎えに船に乗り込んで来た辻小太郎から、入植地での日当が約束の三分の二に減額されることを伝えられ、驚く。
その上、辻が、
「近くの原生林の中に入れば、椰子の実がいくらでも落ちているから、それを拾って売れば、かなりの金になるし、食料の足しになる」
と言ったものだから、移住者たちが、
「人を乞食扱いするか!」
と激昂、下船を拒否した。
そういう騒ぎの後、河船に乗り換えて一週間ほど航海、着いたのが、農務省系のベルテーラ、フォードランジア両植民地である。
が、ここで移住者たちを、またも愕然とさせる事件が起こる。植民地側が退去を要求したのである。原因については諸説あるが、いずれが正確かハッキリしない。
被害者の一人茂木安太郎(二〇〇五年現在、サンパウロ在住、金庫業)は、
「日当の件も事実だし、植民地側からは確かに八月までに出て行け、と告げられた。そういうことになっているのに、その最中、海協連は、さらに亜米利加丸で移住者を送り込んできた」
と呆れる。
その亜米利加丸組を含めて、計七八五人は、アマゾン各地の八カ所の入植地に送り込まれた。ところが、原生林の中に投げ捨てられたような形となり、殆どが逃げ出す。
パラナ州カストロの香川公宏(戦後一世)によると、
「親戚に、退去させられた人が居て、別の入植地へ行ったが、とても人間の住めるような所ではなく、軍の飛行機に乗せて貰って脱出、アカラへ行った」
という。脱出…と。
辻・松原移民には、同種の話が少なくない。
両人の不始末であり、この二人は戦後移民の大量導入という事業を実現したわりには評判は良くない。
辻など、サンパウロでは「向こうへ行くと、彼を悪く言う人間ばかりだ」と評されたほどである。向こうとはアマゾン方面のことである。
松原も同じ様なものであった。
二人は、被害者たちの怨念を背負った。
無論、海協連にも責任はあった。
そのことについては、若槻の本に書かれているが、筆者は、これを読んで驚いた。
(この通りとすれば、海協連には、官庁や政治家によって、使い道のない人間が役職員として送り込まれ、人間のゴミ捨て箱になって腐臭を放ち、仕事は仕事にならず、組織としても機能していなかった。移民は、その犠牲になった…)
という気がしたのである。
こうなると、これは海協連の責任…ですむことではない。政府レベルの責任である。
戦後、日本政府に在って、移住を推し進めたのは、吉田茂首相である。閉塞感に苦しむ日本社会に、風穴をあけようとする政治的判断によるものであった。
が、その動機は是としても、発生した問題の根因は、この吉田にあったと断ずべきである。
そもそも、移住事業などというものは、他の省庁の仕事に比較すれば、段違いに難しい。従って国家が十年、二十年単位で長期的・総合的な計画を立て、機能的な組織をつくり、優秀な人材を配し、十分な予算をつけて、始めるべきであった。
念入りに事前調査と実験をし、移住者も厳選、徹底した訓練の後に送り出すべきだった。
さらに場合によっては「作戦中止、総員撤収」ということも、計算に入れておく必要があった。
明治以後の、日本の移住事業が発生させた数多くのトラブルを整理分析すれば、そのことは簡単に判った筈である。
しかるに吉田はそれをせず、軽々しい判断で片手間に始めたとしか思われない。
戦争でも、総司令官が、基本的な判断を誤れば、下部組織の動きが至る所で狂いを生じ、最前線の兵士が苦しみもがく。
辻移民事件が起きた一九五五年、外務省は移住者の援護を目的として、日本海外移住振興という特殊法人を設立した。
これは吉田が訪米の際、どこからか好条件で融資を受けた一、五〇〇万ドルを資金としていた。
吉田も、事件の発生に驚き、そういう処置をとったのであろう。
一九五六年以降、移住振興の現地法人として(サンパウロその他に)移住地の造成を目的とするジャミック、移民への資金融資を行うジェミスの両社が開設された。
かくの如くで、戦後移民は、色々なことがあった。しかし移民数は年々増え続け、一九五三年の一、二〇〇人が、五九年には六倍近くになっていた。
乱気流混じりながら、日本から新しい風が吹いていたのである。(つづく)









