ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(320)
セラード開発
一方、ブラジルではセラード開発が始まろうとしていた。
セラードは、その頃は、この国の内陸部に、無限…といってよいほどに広がる未開発地帯であった。
開発は連邦政府が戦略的国策として取り組んでいた。
(なお、右の連邦政府とは、一九六四年に革命を起こし、かつそれを継承していた軍事政権のことである。が、前章で記した様に六八年、国の呼称が代わったため、こう表現されることが多くなっていた)
連邦政府の、この計画には、ブラジル中の組合や農業者が関心を寄せ、多くが参加を目指して動いた。
日系の先陣を切ったのはコチア産組であった。一九七三年、ミナス・ジェライス州で、営農団地の造成に着手した。
それより以前、コチアでは役員改選があり、専務理事が代わっていた。前任者の谷垣皓巳は副会長になった。
専務は一時的ながら三人制となり、その内の一人は、小笠原一二三だった。
数年前、組合病院を葬った小笠原は、遂に理事会の重要ポストを手に入れたのである。
この小笠原がセラードへの動きを主導していた。
降霜で、しばしば深刻な被害を受ける地元北パラナの組合員のためだった。霜のない地方への移動を考え、七一年から、ミナスでカフェーと大豆の試験栽培をしていた。
その結果を基に、理事会に、営農団地をつくるよう提言した。
対して理事会は、団地経営はタピライとマカエで臍(ほぞ)を噛んでいただけに、慎重であった。
が、そのうち空気が変わった。ミナス州と連邦の両政府の協力を得られる可能性が出てきたからである。
会長のゼルヴァジオも乗り気になった。
組合病院で苦い思いをさせられた小笠原の提言であったが、事業そのものが魅力的だった。
会長としてミナス州都ベロ・オリゾンテに飛んで、パシェコ知事と話を煮詰めた。
その知事は首都ブラジリアに飛び、メジシ大統領に協力を要請した。
かくしてコチアと州・連邦両政府の共同事業として、営農団地の建設プロジェクトが作成された。
このプロジェクトでは、両政府が開発地の用意・融資・インフラ整備・技術指導を引き受け、コチアは入植者の人選・生産物の貯蔵・販売を担当、入植者が整地・営農をすることになっていた。
開発地はミナス州南西部パラナイーバ高原のセラードに決まった。
この団地は、それまでのブラジル農業の概念を一新するものであった。
二万四、〇〇〇㌶の平坦な大地を、整然と一区画二五〇㌶に区切り、大型トラクターで整地から化学肥料投与、播種をし、小型飛行機で農薬を散布、やはり大型のコンバインで収穫する…というやり方で、少し後になるが、長大な回転式灌水装置(ピボ・セントラール)も導入された。
なお一区画は、入植者一人用である。
これは明らかに、前章で紹介した米国の「緑の革命」の本格的導入であった。
このプロジェクト、まことにダイナミックに進展した。何故なのか? 答えは、諸材料を組み合わせると、こうなる。
これも前章で記したことであるが、ブラジルは米国の国際的食糧戦略と連動していた。
具体的には、まず六〇年代中頃から、米国の資金援助を受けて、恩典つき農業融資を始めた。
さらに、緑の革命に倣うべく、米国製の大型農機や化学肥料、農薬、営農技術を導入…と、次々手を打ち続けていた。
そして新たな戦略的開発を展開する場として、セラードを選定した。
ミナス州政府は州内の開発を熱望していた。
そうした時期、両政府はコチアの動きを知り、利用することにした──。
つまり、コチアの動きは米国、ブラジル、ミナスの狙いに合致していたのである。
このプロジェクトはPADAP(パラナイーバ高原開発計画)と名付けられた。普通、その開発地の最寄りの町サンゴタルドの名で呼ばれる。
当時のゼルヴァジオは──夫人の想い出話によると──その表情が最も明るかった時期で、現地の土地の平坦さ、広さ、そこで作る大豆の輸出の可能性を、楽しそうに話していたという。
サンゴタルドには、北パラナの組合員の子弟を主に、八九人が入植した。独身の若者が多かった。
壮年期に入ったコチア青年も何人か含まれていた。ファゼンデイロの夢に漸く手をかけたのである。
七四年三月、新大統領に就任したガイゼルは、壮大な、実に壮大な…三七〇万㌶の総合的なセラード開発計画POLOCENTROを決定した。
POLOCENTROはミナス、ゴヤス、マット・グロッソ各州で、開発地を選定、入植者に技術指導をし、特別融資をすることを予定していた。
入植者は全伯的規模で募られた。
同年八月、ブラジリアを訪れた田中角栄首相が、ガイゼル大統領と会見、計画の一部に参画することになった。プロデセール=日伯セラード開発計画=がこれである。コロニア農業界の参加を予定していた。(つづく)









