ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(332)
専務解任ということになったら、我々も辞表を出すなどとも言っていない。解任を決めるのは、運営審議会であり、どちらかにつくというようなことは、会長として事前にする筈はない」
ケイロウの話とは、エラク違っていた。一旦、葛藤が拗れてしまえば、こういう風になるのは、ありふれたことではあるが…。
ところで「ケイロウ解任」に仰天した人々がいる。その母親つまり健吉夫人ら親族だった。特に夫人は、
「ケイロウが何をしたのか、本当のところを教えて下さい」
と人を介してゼルヴァジオに訴えた。
その後、夫人は(ゼルヴァジオを若くして抜擢し続けたのは、自分の亡夫であり、下元家と井上家とは親戚づきあいでもあるから、ゼルヴァジオの方から事情説明にくる)と、ごく自然に思って待っていた。
が、その訪れはなかった。両家の住宅は、すぐ近くであったが…。
若くして役員となり、下積み経験のないゼルヴァジオには、そういうことが出来なかったのである。
「聞きたければ、向こうから来るべきだろう」と口をすべらしたという話も、下元家に伝わり、家人を激怒させた。
話を戻すと、ケイロウは専務を解任された後、運営審議役の職も投げ棄てて、組合本部を去った。組合の危機を回避したこと…特に財務の自己資金比率を相当高めたことを誇りとしながら…。
専務の職は小川副会長が継いだ。一見、降格である。が、この組合では専務に実権が集中している上、それまで担当していた財務部門も兼任したので、以後その力は強大なものとなった。
しかし、この解任事件は、これで終わったわけではなく、その後も、火のついた長い導火線が灰の中に埋まったまま、燻り続けるような形となった。
その導火線は、幾つもの地雷に繋がっていた。
組合と自分の最期を予言
一九八二年中頃、筆者はスール・ブラジルの中沢源一郎理事長にインタビューをした。
因みに、筆者はその頃、農業雑誌『アグロ・ナッセンテ』をコチア青年たちと起こし、編集を担当していた。
そのインタビューの折、スールがサンパウロ州東南部のムニシピオ=ブリー=に持つ広大な植林場のことが話題になった。
この植林場は、一九六四年、組合の創立三十五周年を記念して造られたものである。組合員が出荷する生産物用の箱を作る材料とするための米松一二〇万本、他にユーカリ一〇〇万本を植えていた。
その後、出荷用にはプラスチック製の箱が普及したため、植林場は、資産として管理されていた。樹齢は平均十五年ということであった。伐採は二十五年以降が適期である。
「あの樹を売らにゃならんことがあるとしたら、それは組合が潰れる時でしょう。だから、私の目の黒い内は、伐らんデくれ、と皆にお願いしているのです」
と、意外なことを中沢は言った。
「堅牢無比なスールが、潰れるなんてことはないでしょう。中沢さんも未だ簡単には……」
と、筆者が言うと、
「イヤ…」
と、その表情と手振りでハッキリ両方とも否定した。
以下は後から知ったことだが、中沢はこの頃すでにスールの最期を予感していたようである。
それと、自身、内臓に厄介な病(ガン)を抱え込んでいた。右のインタビューの最中も、何かの用でソファーから立ち上がって二、三歩…で突如「ウッ!」と言って、前に進めなくなった。
自分の寿命が、そう長くないと覚悟を固めていたのだろう。
ブリーの植林場に関する部分も含めて、この日の中沢の言葉は、やがて総て適中する。
無責任体質
再びコチアの話になる。
一九八二年から八三年にかけて、南マット・グロッソ州の事業所が、六〇万㌦相当の肥料と農薬を詐取されるという事件が起きた。(南マット・グロッソ州=旧マット・グロッソ州南部。一九七七年、分離・独立)
詐取したのは、新しく組合へ加入した非日系人であった。
この事件、経済的損害もさることながら、その「責任の取り方」に於いて、大きな疑惑を残した。
引責辞任したのは、事業所の支配人だけで、上司や関係理事たちは、その地位に居座ったのである。
その一人である専務の小川は、この事件の前に「購買」で売上げを伸ばす様、同支配人にきつく要求していた。
後に、ある元幹部職員は、筆者にこう語っている。
「小川さんは、部下の不祥事に関して、責任を取らなかったことが、私が知っているだけでも四件ある」
筆者は、小川にも取材を申し込んだが、応じなかった。
右の詐欺事件の少し前に起きた専務解任は、峻厳な裁定であり、その一件のみから類推すれば、役員室があった組合本部六階には、綱紀が張りつめていたかにも思える。(つづく)









