山内さん、貴方が1931年生まれであることは承知しており、卒寿の際に和子夫人に電話して、お祝いを申し上げましたが、その後ご無沙汰しているうちに、先日ブラジル日報の記事による訃報に接することになり、一瞬瞠目しました。
私は貴方がブラジル日本文化協会(現ブラジル日本文化福祉協会)会長に就任した際に、第五副会長としてブラジル日本移民史料館運営委員長の重職を委嘱されました。私は学生時代から、日本留学中も含めて日系団体に関係したことはありませんでしたが、以下の理由により、貴方の要請を断り切れませんでした。
それは日本人ブラジル移住70周年を記念して建設されたブラジル日本移民史料館の落成式の際に、日系社会からは当時の中沢文化協会会長、斎藤広志建設委員長のみが参加できた晴れの場所に、皇太子殿下同妃殿下(現上皇上皇后陛下)とガイゼル大統領の通訳として居合わせたことがご縁でした。
貴方はその後、4期8年にわたって文化協会会長を務め、私も2期目からは第一副会長として、貴方を補佐しました。
貴方は1997年の史上初の天皇皇后両陛下のご訪伯の歓迎委員長を務めたことを花道として会長職を退き、私が後任会長に指名されていました。
しかし、私は貴方の任命によってイビラプエラ体育館に約1万人を集めた両陛下歓迎式典の組織委員長を務めた際に、約一年間にわたる準備段階において体調を崩し、その後は日本で入院して手術を受けていたことから、予後の安静状態の必要性もあり、辞退しました。
多くの方々から三顧の礼どころか、何度も訪問されて翻意を迫られましたが、当時は私の子供たちもまだ幼少であり、何としてもお引き受けできませんでした。私の代わりの貴方の後任としては当時、東京都友会会長の岩崎秀男氏が選ばれましたが、岩崎氏のご懇請により、第一副会長を2期4年にわたって務めました。
貴方とはその後何度か、サンタクルス日本病院の評議員会等でお会いしました。そのうちに一献差し上げて、あのころの思い出を語り合おうと言い交わしていましたが、お互い多忙で延期しているうちにかなわなくなってしましました。そこで、貴方への供養の意味を込めて、いくつかの出来事を想起したいと思います。
貴方が指導力のある会長で、数々の偉業を成し遂げたことは何人も認めるとことであり、私は補佐役としてお仕えしたことを誇りにしていますが、いくつかの点について意見の相違もありました。
一例をあげるとすれば、橋本龍太郎総理来伯に際して、当時の日系三団体(文協、援協、県連)に対して一億円ずつの寄付をいただいたことに由来しました。
貴方はそのことに意を強くして、かねてより念願の日伯学園の建設を発表しました。しかし、私は自分の責任下にあった移民史料館が手狭となり、三次元の物品の展示のためにスぺースの拡張を計画しており、旧総領事公邸の払い下げなどを水面下で画策していましたが力が及ばず、第三者に売却されてしまいました。最終的には、かつて文協ビルの屋上にあった日本庭園が使用されていないことに着目し、屋上に屋を重ねる建設を計画し、その検討を行っていました。
私はその一億円があれば、移民史料館の拡張を行うことができるので、その後は私も日伯学園の建設プロジェクトに協力できる旨、進言したのですが、貴方は橋本資金を自分の信念を貫くために使用すると明言しました。
それでは、文協の定款にも管理責任が明記されている移民史料館をどうするのかという問いには、私に白紙委任すると言われました。
そこで、私は自分自身の意地をかけ、率先して募金活動に取り組み、国内外から約1億円の資金を調達して建設に取り組みました。
後述するように日系社会の一部に悪意の反対もあったなか、1997年の天皇皇后両陛下の訪伯に間に合わせることができ、行幸啓を仰ぐことができました。
現在において再度新装なった移民史料館の9階のフロアが立派に活用されていることを見るたびに感無量です。
他方、日伯学園については、建物の建設資金の一部は確保できたものの、1万平方メートル程度の土地を確保しなければならず、貴方も日系政治家のつてを求めたり、一所懸命に市役所や州政府に対して奔走したことは目の当たりにしていました。
しかし、いずれも「帯に短し、襷に長し」と言ったところで、土地の確保はできませんでした。そこで、貴方は日系社会における某人物が実業家にして資産家でもあり、不動産業界にも詳しいと言われたことから、当時の安立文協事務局長の反対を押し切って、文協理事に抜擢しました。
しかし、同人物は高利貸としても知られており、企業や個人に金を貸しておいて、過大な担保を提供させ、支払いができなくなると借金のかたにそれを取り上げて財を成し、あるいは自分がその企業の経営に一旦は参加したうえで、貸金を回収すると、後は「野となれ、山となれ」と言った行為を繰り返し、その企業を倒産に追い込むことも厭わない、と言われていました。
最終的には、文化協会にとって「獅子身中の虫」的な存在となり、文協が日本に秘密口座を隠し持ち、役員の訪日の際に宿泊や飲食費にあてている等の流言を自分の意に沿うイエローペーパー的なマスコミを介して広め、また自らの意見に反対する者のプライバシーに関する情報を探るなどの行為を繰り返しました。のみならず、貴方や自分の父親ほどの年齢の岩崎会長を罵倒したりしたことは、決して忘れられませんし、許せません。
今一つの案件は、学校法人国士館がイビウーナに所有していた土地の件です。1970年代に同法人の柴田梵天理事長がベレンとサンパウロにおいて、剣道をはじめとする日本の武道をブラジルにおいて広めるために購入したものですが、日本国内における不祥事のために文科省が経営に介入し、同氏及びその一族が失脚して、売却相手を物色していました。
私は同法人の顧問弁護士に委嘱されていましたが、貴方の指示を受け、客員教授として訪日するたびに国士館本部を訪れ、幹部の方々と協議を重ねて日系社会のためにその土地を寄贈するよう要請しました。
5回にわたる折衝の後、国士館という名称を残すことを条件に無償譲渡の同意を取り付け、文協45周年記念行事の際に同学校法人の役員が訪伯して署名を行いました。
本件についても、某氏は同土地を管理することが国士館にとって赤字がかさむことから引き取ったが、文協にとって赤字の原因となっている等の流言を広めました。
これは貴方や私の努力を無にするような行為の繰り返しであり、残念なことに地元ではそれを信じる方々もいたそうで、憤りを感じました。現在では、国士館センターは文協にとってサクラ祭りやマレットゴルフ等、様々な行事を行う場所として活用されており、喜んでいます。
最期になりますが、1980年代後半にブラジル日系社会を揺るがしたデカセギ現象が生じました。まるで怒涛の如く日系人が就労のために訪日した結果、受け入れる方も準備不足で対応に苦慮した結果、日本の旧労働省と外務省から係官が訪伯し、就労者のために事前研修を行い、日本語や日本の法律、社会保険、その他の知識を伝えて、公的就労経路の確立に協力してほしい、という要請がありました。
文化協会は援護協会、県人会連合会やその他の日系社会の諸団体に呼びかけを行い、また日本からも専門家の来伯を要請して、1991年11月に「出稼ぎ」に関するシンポジウムを行いました。
その結果として、まずは文協内の一部局として「出稼ぎ情報支援センター」を設置し、その後は旧労働省からの補助金を得て、独立した法人を設立するという結論に達しました。私は貴方の指示により、本件の責任者となりましたが、現在は厚生労働省の補助金を海外日系人協会を通じていただいている、CIATE国外就労者情報援護センターは、このようにして設立され、私は今日に至るまで理事長を拝命しております。
デカセギ現象について書き始めると長くなりますが、35年間に60万人とも70万人ともいわれる日系人が日伯間を往復し、現在でも21万人余が日本で生活しています。CIATEが貴方のご尽力によって設立されて、今日に至っていることは特筆されても良いと思います。
山内さん、貴方の功績はブラジル政府のみならず、日本政府からも高く評価され、古希を迎えた際に旭日小授章が天皇陛下によって授与されました。
普通は在サンパウロ日本国総領事館において伝達式が行われるところ、貴方は夫婦で訪日し、皇居において叙勲の栄誉を賜ったことを誇りにしていました。人間の評価は棺を覆ってから定まる、とよく言われていますが、貴方の文化協会やその他の日系団体に対する30年以上の貢献はブラジル日本移民の歴史に深く刻まれ、今後の若い世代の尊敬の対象になることを信じています。
合掌