《寄稿》「極楽で暮らしてみたけれど」=すべてに満足しているという不幸せ=サンパウロ市在住 毛利律子

文藝春秋社の創業者でもあった作家菊池寛(文藝春秋, Public domain, via Wikimedia Commons)

 菊池寛(きくちかん、1888―1948年)の短編小説「極楽」では、死後に長い旅路を経て、念願の「極楽」の住人となった一組の夫婦の顛末を描いている。
 人間は特定の宗教を信じていなくても、一般的に善いことをしていたら死後、極楽(天国)へ行き、悪いことをしたら地獄へ行くということを無意識に信じている。
 極楽とは、これ以上は無い最高の世界のことである。ところが皮肉にも、念願の「極楽生活」が叶って、毎日が安穏・平和にどっぷり漬かる幸せな毎日が続くと、そのうち人間は何を考えるようになるか。何か物足りなさを感じるようになる。
 極楽生活に飽きはじめると、その虚しさを埋めるために、地獄を覗いてみたくなる。刺激を求めて「地獄世界」を夢想する。これはあの世の極楽だけの話かというと、この世の娑婆世界の話でもあると暗示している。
 それだけではない。人生の終末期に、どこで、誰と住むのが一番幸せかという、最も難しい選択、「終の棲家問題」まで連想させられるのである。
 人間の哀しすぎる業欲の果てを教える仏教的な物語である。まずは物語の流れを辿ってみよう。

主人公・おかんの死出の旅路

 物語はおかんの葬式の場面から始まる。
 老母おかんは、染物屋、近江屋宗兵衛の妻であったが、六十六歳を一期として、卒中で急死した。穏やかな安らかな往生であった。特に主人が亡くなってからというもの、さらに信心を強くしていたので、おかんの死に接した家族・縁者は、さすがに立派な大往生だと感嘆した。
 さて、棺桶の中でおかんは葬儀の席に集まった人々の声を聞いて色々と思う。心から可愛がっていた初孫のすすり泣く声は、おかんの胸をかき乱した。やがて、その泣き声がだんだんと子守唄の様になって意識が薄れていった。おかんは、家族が心から自分の死を嘆いていると確信した。死に方としてはこの上ないことだった。
 再びほんのりとした意識が還ってきた。死んでからどれほど経ったのだろうか。
 今は夜明か夕暮か。昼とも夜とも付かない薄明りが、ぼんやりと感じられた。ここはどこかしら。右を見ても左を見ても、灰色の薄闇の中だ。足下もおぼつかないが、一心に先を急ぐしかない。ただ、ここが冥土ということだけはハッキリと分かった。
 これは、極楽へ行く道だろうか、それとも地獄かと、おかんは歩きながら、不安になった。しかし、生前、仏に願ったこの道は、極楽へのただ一つの道であると信じて、一心不乱にお経を唱えながら歩き続けた。夜も昼もない。長い長い薄闇の道であった。
 どのくらい歩いたのだろうか。ひたすら、長く長く歩いたと云う記憶だけがあった。いくら歩いても、足も痛まなければお腹も空かなかった。
 生前、真面目に信心していた時、必ず何時かは極楽へ行けると、幾度も聞かされた。先に旅立った夫も極楽にいるであろう。十年振りに顔を合わせることができる。そう思うと、おかんは力が湧いてきて、老いの足に力を入れ、懸命に歩き続けるのだった。
 おかんのそうした望みが実現する時が来た。闇が、ほんの僅かずつ薄紙を剥ぐように白み始めて、闇の中に、乳白色の光が溢れるように広がるのを感じた。おかんはとうとう極楽へ着いたのだ。

極楽に咲く花のイメージ

極楽の門の向こうに

 気が付くと大きな御門の前に立っていた。おかんはおずおずと御門の中に入った。御門の中の有様は、有難い御経の言葉と全く同じであった。眼前に広がるのは、水晶を溶かしたような功徳の池である。しかも、美しい水底には、一面に金砂が敷かれて、降り注ぐ空の光を照り返している。大きい真紅の蓮華が咲き乱れ、金銀瑠璃玻璃の楼閣が連っている。
 おかんは極楽を一目見て、生きてた頃に積み重ねた身の果報を思い、嬉しくて踊り跳ねんばかりであった。
 おかんは、極楽で懐かしい夫の姿を見て、わっ! と嬉し泣きに泣きながらすがり付いた。が、不思議に、夫はあまり嬉しそうではない。『お前も来たのか』と云うような表情でおかんのために席を半分分けた。
 おかんは長旅から極楽に着いて夫と再会した喜びで娑婆での話を何日も語り続けた。家族や孫娘の話、知人や親類の事も、何度も繰り返した。
 さて、ちょっと一段落して、気分が落着いたころ、おかんは極楽の風物を改めて見回した。見回す限り燦然たる光明が満ち満ちている。空からは天楽が、不断に聞えて来る。楽しい日が続いた。暑さも寒さも感じなかった。物欲もなく、108の煩悩は、夢のように消えていた。「ほんとうに極楽じゃ。針で突いたほどの苦しみもない」と、おかんは大満足。しかし、夫は何とも答えない。
 同じような毎日が続いた。娑婆のように悲しみも苦しみも起らなかった。風も吹かなかった。雨も降らなかった。蓮華の一枚の花弁が散るほどの変化も起らなかった。
 極楽の暮らしも五年ほど経つと…
「何時まで坐るんじゃろ。何時まで坐っとるんじゃろ」
 おかんはある日、ふと夫に聞いて見た。一寸苦い顔をして夫は言った。
「何時までも、何時までもじゃ」
「そんな事はないじゃろう。十年なり二十年なり坐って居ると、又別な世界へ行けるのじゃろう」と、おかんは、腑に落ちないように訊き返した。
「極楽より外に行くところがあるかい」と、夫は苦笑いして言った。
 極楽へ来てから早、五十年もの日が経った。
「何時まで坐って居るのじゃろう。何時まで、こうして坐って居るのじゃろう」
「くどい! 何時までも、何時までもじゃ」と無口になっていた夫はそのように返事をしたまま目を閉じた。
 ものうい倦怠が、おかんの心を襲い始めた。娑婆に居る時は、信心の心さえ堅ければ、未来は極楽浄土へ行けると思うだけで、日々の暮らしが楽しみであった。娑婆から極楽へ来る迄の、あの気味の悪い、薄闇の中を通る時でさえ、未来の楽しみを思うと、少しも歩みを止めなかった。

平穏無事な生活に耐えられない

 ところが、その肝心の極楽へ来て見ると、苦も悲しみも何一つない。老病生死の厄もない。こんな生活が何時までも続くかと思うと、居ても立ってもいられない。しかし、おかんのそんな気持ちとはお構いなしに、同じような平穏・平和な日が毎日続いた。
「地獄はどんな処かな」
 おかんにそう訊かれた時、夫の顔がはっと華ぎ、好奇心に突かれるのが見えた。
「そうさなあ? どんな処だろう。恐ろしいかも知れん。が、ここほど退屈はしないだろう」
 そう云ったまま夫は、黙ってしまった。おかんも、口を閉ざした。が、二人とも心の中では、地獄の有様を想像した。
 五十年七十年と年が経つに連れて、おかんは極楽のすべてに飽きた。その頃には夫とも余り話をしなくなっていたが、まだ見た事のない『地獄』の話をする時だけ、二人は不思議に緊張し、興奮し、心が弾んだ。
 想像力を、極度に働かせて、血の池や剣の山の有様をいろいろ話し合った。こうして、二人は、彼等が行けなかった『地獄』の話をすることだけを一つの退屈しのぎとしながら、極楽の蓮台に未来永劫坐り続けることであろう。
 物語の底に、この世で極楽もどきの暮らしをしている人間も、同じような苦しみを抱えて生きている、と言いたげに、作者は物語を終えるのである。

観光地のかまど地獄

法華経自我偈に説かれた極楽の風景

 菊池寛が仏教徒であったかどうか、筆者は知らない。しかし、この物語の極楽浄土は、法華経如来寿量品自我偈に説かれた極楽の写し絵のようである。
 仏はその中で次のように説法する。
「私(釈尊)は久遠の昔に仏となって以来、無数憶の時を経て、不滅の身をもって常に人々を教化するために、休むことなく説法を続け、量り知れないほどの多くの人々を仏道に入らしめて今に至っている。
 仏の世界というのは、天人が常に満ち、園林茂り、金剛瑠璃の種々の宝で飾られた堂閣が並んでいる。珍しい樹々に美しい花果が咲き、人々はその下で遊楽している。天上から諸天の神の演奏する伎楽がきこえ、曼荼羅華の美しい花びらが、諸仏や人々の上に降り注ぐ。
(ところが)人間社会は過去世に積んだ福徳も尽きて、大火事で焼き尽くされても、修羅、餓鬼といった苦しみが世の中に充満し、醜悪な、苦悩の絶えない世界に住み、阿鼻叫喚の内に堕ちている。
 この罪深き人々は、正しい教えを受け入れないため、何度生まれ変わっても、仏に縁することもなく、ここで死んでゆく。そういう者を導くために、私は常にこの娑婆世界に居て法を説いているのです」と、仰せになられるのである。

絹本著色浄土曼荼羅図(Public domain, via Wikimedia Commons)

どこも悪くない不幸せ

 一昔前まで、政治と宗教の話は人前でするなと言われていたが、この頃はそれに健康法を足して、この三つを語ると人間関係が悪くなると言われる。つまり、互いに聞く耳がない。自分の考えが一番正しいという答えを持っているからである。
 世界中が高度経済・最先端医療・医療保険の充実などで、医療費さえ払えればすぐに治療を受け、健康診断ができる。結果は、いつも悪いところは一つもない。
 ところが、どこも悪くないのに、笑顔が寂しい。内心、どこも悪いところが無いはずはないと思っている。一病息災という拠り所が無い。どこも悪くなくても、心の奥に不安を抱き続ける不幸せである。

お腹が空いてないが、なんとなく食べ、余ったら捨てる

 この世の極楽社会は飽食社会でもあり、食べ物を毎日大量に捨てる社会である。大昔から人類は、日本の昔の人々も、どれほど空腹に耐えていただろうか。昭和ひとケタ、ふたケタ世代は、「出されたものはすべて食べろ。食事中はよそ見をするな。食べ損ねると『食い物恨み』を買うぞ」という時代を生きてきた。今の団塊世代の高齢者はそれを体験したはず。
 ところが子や孫は、お腹も空いてないのに、「なんとなく」食べている。テーブル一杯にご馳走を注文する親は「無理しなくていいよ。残せばいいから」と、さも正論の様に言う。
 一方では、貧困で満足に食べられない子供たちもいるし、餓死する人もいる現実である。飢えは死に直結しているのである。この飽食社会は、どれほど恐ろしい犠牲の上に成り立っていることか。

終の棲家選びは極楽か、
地獄の分かれ道か

 「終の棲家」は、高齢者が人生最後の時に、「どこで、だれと、どのように最期を迎えたいか」を選ぶ最重要な要素である。選択を間違えると、大満足か大後悔の深刻な事態に至ることになる。
 それでは何を基準にして終の棲家を選ぶか。国も自治体も、その対策として次のように提案を掲げ、相談窓口を設けている。
●今の住まいを「終の棲家」にするか
●利便性の高い住宅に住み替えるか
●高齢者施設に入所するか
●子供と二世帯住宅で暮らすか
●介護に備えるためには、事前準備としての経費、つまり老後資金の問題と、同居介護者の忍耐力がどこまで続くか
●バリアフリーリフォームは健康配慮されてるか
●共同住宅という暮らし方
●災害対策、警備対策に十分対応しているか
 以上のことを含め、高齢者には直近の問題として、向き合わねばならない。
 世界は、戦後の束の間の極楽もどきの安穏を味わい「この世は極楽、極楽」とぬか悦びしてきたが、いよいよ、その平和に飽きたのだろうか。今や止まることを知らない戦争という地獄を繰り広げている。
 この物語を読みながら「次も人間に生まれるだろうか。死んだら極楽(天国)に行けるでしょうか」という、素朴で永遠の問いへの答えを、にわかに模索し始めたところである。
【参考文献】インターネットの図書館「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/2695_41308.html)第三巻」文藝春秋新社、1960年5月20日発行

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