ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(49)

上塚周平(Katalog, Public domain, via Wikimedia Commons)

 それでも平然と、土地の買収交渉のため、地主の住むサンパウロへ出掛けた。西洋乞食のような風体で、小金しか持たず……。切符代すら不足し、途中の所々の駅で下車、その地の知人から借りて汽車を乗り継いで行った。
 無論、交渉は進展しなかった。代わって、上塚の片腕となっていた間崎三三一が行って話を纏め、資金の調達方法も工夫してきた。
 間崎の骨折りで、建設が始まったこの二番目の植民地は十年後、二百五十家族ほどの規模となり、周辺を含めると五百家族を数えることになる。
 こちらも、多分に上塚の人気によるものであった。
 間崎は前章で登場した。
 ファゼンダ・ドゥモントを逃亡、サンパウロで上塚に説得されて帰って行った数人の若者の一人である。あれから十数年が経っていた。
ドゥモント退去後はサンパウロへ出てペンキ屋で働いた。仕事ぶりが認められ、稼ぎは悪くなかった。
 他人の面倒見もよく、彼の家は、いつの間にか、頼ってくる移民仲間の宿舎の様になっていた。
 間崎はポルトガル語の習得も早かった。
そういう能力を生かして、幾つかのファゼンダでの日本移民の管理役を務めた。非常な好成績を上げたという。 
 一九一八年、上塚は植民地建設のため日本から戻る時、間崎にも協力を求めた。当時、間崎は四〇万本のカフェー園の造成事業を請け負って、飛躍を期そうとしていた、が、上塚の頼みに応じた。 
 彼は後年、カーザ東山のノロエステ線地方の総代理人も兼業、カフェー、綿、その他農産物の仲買商として手広く活躍した。
 カーザ東山は──三菱の社主岩崎家所有の──東山農事がブラジルで手掛けている諸事業の一つで、商事会社であった。
 間崎は、さらに農牧工……各分野で事業を営んだが、彼を特徴づけたのは、ノロエステ線地方の邦人社会の世話役としての働きであろう。
 例えば一九三五年、前記のプロミッソンの植民地の入植者の一部が、悪質な係争に巻き込まれ、強制立ち退きを迫られたことがある。
 その時、間崎は率先、戦いの先頭に立ち、解決に導いた。サンパウロの日本総領事館を動かして州政府に介入させ、さらに東山の資金協力を得て……という具合で、並みの人間には出来ぬ芸当であった。
他にも種々、同種のことがあって、ノロエステ線の親分と呼ばれた。
 この間崎以外にも、前記した様に(南樹、香山のほかに)上塚の周辺には、植民地建設の同志が集まっていた。ファゼンダ・ドゥモント出身者たちもいた。前章に記した騒動の時、上塚に暴行し罵声を浴びせた側の人間である。
 一般の入植者の多さと共に、不可解な現象である。上塚の様な奇人が、どうして、そんなに人気があったのだろうか? 
その所以は、まず涙であったろう。
上塚は実によく、移民のために泣いた。例えば前章で触れた様に、笠戸丸移民がファゼンダ・ドゥモントで騒ぎを起こした時には、泣きながら謝罪した。その話は口から口へと伝わって、遠方まで知れ渡った。
 涙以外に、俳句でも移民の心の琴線を振るわせた。

 夜逃げせし 移民思うや 
枯野星

 夕ざれや 樹かげに泣いて 
カフェーもぎ

 笠戸丸移民の失敗が明らかになった頃の作である。この句は、ごく短期間に各地に伝わった。
 経費が要らず、趣味として楽しめる俳句や短歌は、移民の間に早くから普及したが、その愛好者を最も感動させた作品は、右の二句であろう。
 上塚がサンパウロに居た頃は、ファゼンダを出て路頭に迷った移民たちが、この俳句を思い出して頼ってきた。すると彼は話を聞き、涙を流し、小銭を与え、仕事口を探してやった。それでいて常に「相手を下から見上げる」姿勢だった。
 自然、人気が高まった。敬愛者すら生まれた。
 そうなった材料は、ほかにもあった。

最新記事