《記者コラム》日常が日常でなくなる時=イスラエルでの危機に思う

7日に始まったイスラエル危機は、ロシアによるウクライナ侵攻に勝るとも劣らない驚愕の出来事となった。
突如始まったイスラム組織ハマスによる攻撃とそれに対するイスラエル側の激しい報復攻撃もさることながら、音楽イベント会場での殺戮や、イスラエル北西部の風光明媚なキブツ(農業共同体)クファル・アザで起きた、赤ん坊や子供40人を含む200人もの虐殺(首をはねられた犠牲者もいた)などの異常事態には耳を疑った。
しかし、ユダヤ人が昔から争いを繰り返してきたことや国を失う経験を経た後に現在の国土を得たこと、パレスチナ人との関係などを考えれば、あり得ることか。人々の愛が冷え、国が国に、民族が民族に敵対するという終末予言の実現とも言える。
だが、ユニセフが中東の現状を指して「急速な人道的な劣化(rápida degradação humanitário)」と警鐘を鳴らし、人道的な働きに就く人々の安全確保やハマスが人質とした子供達の即時解放を求めたとの10日付アジェンシア・ブラジルの記事(1)などは、事態がやはり異常であることを示している。
最近は国内外で大水害や地震といった自然災害が続いていたが、そこに加わった戦争という出来事は、「日常」「日常的」という言葉の重さを考えさせる。
日常は、いつも同じようであること、特別なことがなく普段通りであることを意味する。何かが当たり前になるということは、その価値や大切さを見失いがちになり、いつもと違う出来事にうろたるようになることに繋がる。
コラム子の場合、行先も言わずに出かけた息子が明け方まで帰ってこない時とか、仕事に不可欠なインターネットが使えなくなるといった出来事が平静心を失わせ、不安や焦りを生じさせる。地下鉄のストで職場に行きあぐね、帰るのも容易でないはずの子供達と連絡を取ろうとしても電話がつながらなければ、それも心配の種となる。
まして、終わりが見えない紛争、死と背中合わせの毎日という「非日常」に直面している人達が味わっている不安や焦りはいかばかりか。
幸い、イスラエルに在留していたブラジル人211人は11日未明(4時10分頃)にブラジリアに到着。救援作業は継続して行われているし、ペット同伴者には衛生管理上の登録証提示免除の特例措置を導入し、紛争で断絶された日常を保てるよう配慮したとも聞く。紛争の早期解決と共に、生活の場や人間関係などが急変した人々が一刻も早く日常を取り戻せるよう、願わされる。(み)