《記者コラム》便利さと不便さが共存=近代社会の落とし穴?

新型コロナのパンデミックで在宅勤務になってから、便利さと不便さは背中合わせだと痛感する機会が増えた。一例はインターネットだ。
その昔、勤めていた会社が東京のビジネスショーに参加し、そこでE―mailのデモンストレーションを行ったことがある。当時はE―mailの仕組みや機能を説明する同僚の隣で文書を作り、隣のコンピューターに送って見せたりしたものだった。昨今は携帯電話のアプリも含め、通信手段は「あって当たり前」になった。
あって当たり前のものが使えなくなると「手足をもがれた」様な感覚に陥る。業務上の連絡や記事の送付もインターネットに依存している在宅勤務者はなおさらだ。
あって当たり前だが、急に使えなくなると慌てるものには電気や水なども含まれる。日常使う薬や携帯電話を忘れた時の不安も、あるのが当たり前の生活に慣れていた証拠だ。
夜の停電ならロウソクを使うが、昼間の長時間停電の時は息子が発電機を探してくれた。インターネットが使えない時は携帯電話をWi―Fi代わりに使う方法も覚えた。ただ、携帯電話をWi―Fi代わりに使い過ぎると、通信会社から使用量超過の警告が届き、それにも頼れなくなることがある。
インターネットが使えない不便さは、執筆に必要なニュース記事が読めない時や、書いた記事を会社に送れない時、ユーチューブ動画で時間を潰すのに慣れた孫が手持ち無沙汰になっているのを見た時などに痛感する。
ネット以外でも、補聴器を使う人が、耳の形に合わせて作られた支えの部分が折れ、はめてもすぐに外れて使えないと嘆いているのを見たことがある。便利さを提供してくれるものが使えないと、より強く不便さを感じるようだ。
不便でも代替策がある時はまだ良い。公共交通機関のストのように代替策を探すのが難しい時もある。広域停電の際、商店などでは冷蔵庫などが使えず、食品が売り物にならなくなり、重大な損失が生じる。
ガザ地区では電力供給が打ち切られ、発電機用燃料も尽き、新生児100人以上の命が危機に瀕している。
便利さを求めて開発されたAIで職を失った人なども、近代社会の落とし穴に落ちた一例だろう。
便利さは望みたいが、あって当たり前に慣れることや、それが使えなくなって自分を失うことは避けたい。そのためには、なくても済む方法を探し、工夫することや助言を仰ぐことも必要になる。他者の声にも耳を傾ける頭と心の柔らかさを保ち、臨機応変に対応する術を探せる人には落とし穴からの退路も開かれるかもしれない。(み)