《記者コラム》知られざるファベーラの歴史=最大のスラム街は元日本人農場

産業革命が生んだ豊かさの裏側
11月4日は「ファベーラの日」だった。言わずと知れたスラム街、貧民窟のことだ。ブラジルにおいてこれは独特の存在感があり、ただの貧しい地域ではなく、底辺文化から派生したいろいろな「ブラジルらしさ」が溢れている。
世界史的にはスラム街の発生は、資本主義社会を生んだ「産業革命」と深く関係する。19世紀にイギリスで始まった産業革命によって都市部で大量の工場労働者が必要になり、農村地域から急速に流れ込んだ。同時に、工場で大量生産された工業製品により、それまでの手芸や手工芸品が淘汰され、農村部の仕事が一気に減ったことも拍車をかけた。
都市部には労働者が大量に流入して、不衛生なスラム街が形成された。貧困層が都市部に住むには、富裕層は住まないような傾斜地や洪水の時に氾濫する湿地が多く、不法占拠してバラック小屋を立てるしかなかった。
当然、上下水道や電気のような基本的な都市サービスが不足しがちで、病気の発生率が高くなるなど、経済的発展のヒズミがそこに凝縮するような部分があった。国が豊かなほど、スラム街の発生率は低くなり、スラム街の規模が大きければ大きいほど、その国の一人当たりの国民総所得は低くなると言われる。
このように急速な農村人口の流出、都市計画の欠如、不況や経済停滞の期間の長さ、社会格差の大きさ、高い失業率、非公式経済の大きさ、自然災害と戦争などがスラムの大規模化と関係する。
ブローカーにより一晩で生まれるスラム街
ブラジルにおけるスラム街発生は、左派運動に深く関連している。田中宇ニュース99年6月18日付《スラム街出現の裏にうごめく人々》(1)には、一晩にして生まれたクリチーバ近郊のスラム街の裏側にいる《プロの「スラム街建築士」》というブローカーの存在をレポートした。
《ブローカーは(バス)ターミナルで張っていて、出稼ぎ者を見分け、声をかける。そして、住むところが決まっていない人々に対して、既存のスラム街(不法居住地)の家(というか小屋)を安く貸すよ(もしくは売るよ)と持ちかける。
出稼ぎの人々は、そこが不法居住地だと知らず(もしくは知っていても無視して)、合法的な賃貸住宅よりずっと安いその家に、金を払って住み始める。
そうやってスラム街に住んでいると、そのうちに、こんどは別のブローカーがやってくる。「ここより、もっと良いところに住まないか」。
彼らは、各地のスラム街を回って募集し、あるいは一つのスラム街の人々全員をその気にさせて、ある日の夜、目をつけておいた公有地に、人々を引き連れて乗り込む。
そして人々は事前の打ち合わせ通り、周りをビニールシートやベニヤ板で覆った、にわか作りの小屋を数時間のうちに建ててしまう。応募してきた人の中には、公有地への急襲を生業としている「プロのスクワッター」も多くおり、手際良く「家」を建ててしまう。
そうではない素人を教える「技術者」や、ビニールシートなどの「建材」を売る業者も一緒について行き、営業活動を展開する。こうして、翌朝には、新しい町が出現しているというわけだ。
市当局がこれに気づき、撤去命令を出すと、プロの交渉屋たちが「住民代表」となり、「貧しい人々VS強権的な市当局」というイメージをまき散らしつつ、市の住宅政策の不足を攻撃しながら、この地区を合法的な住宅地として認めるか、代わりの居住地をあてがえ、と主張する。
交渉が長引いている間に、不法占拠者たちの家の材質は、ビニールから板張りやブロック製へとグレードアップしていき、次第に合法の低所得者用住宅地と見分けがつかなくなっていく。
プロのスクワッターは、不法占拠の最初の数日が過ぎた時点で、本当に住み続けてくれる人を探し、土地を売ってしまう。その価格は大体1000レアル(6―10万円程度)というのが相場だという》
これは、1970年代から始まった「土地なし農村労働者運動(MST)と、それの都市部門として1997年に創立した「ホームレス労働者運動」(MTST)という左派運動の流れだ。まさに後者の実態を描いたのが田中宇さんのレポートだ。最初こそ不法占拠だが、プロの運動家が入る事で、選挙のたびに合法化されたり、インフラが整備されていったりして〝町〟になっていく。
後者は現在、14州にまたがる5万5千家族が参加する社会運動になった。急進左派政党PSOLの岩盤支持基盤であり、その代表的運動家がギリェルメ・ボウロス連邦下議で、来年に行われる地方選挙のサンパウロ市市長選の世論調査1位になっている。

国民の20人に1人以上がスラム住まい
UOL教育サイト(2)によれば、2010年の地理統計研究院(IBGE)データによると、約1140万人(人口の6%)がこのような「非正常集積地」(スラム街)に住んでいる。同調査はブラジルの5565自治体のうち323市に6329カ所のファベーラを特定した。
ファベーラに住む住民の割合が最も高い都市は、人口の半分以上(53・9%)がこのタイプの集積地に住んでいるパラー州都ベレン、続いてバイア州都サルバドール(26・1%)、マラニョン州都サンルイス(24・5%)、ペルナンブッコ州都レシフェ(23・2%)だ。
ブラジル最大都市である人口約1200万人のサンパウロ市ではなんと11%、675万人のリオ・デジャネイロでは22%が貧民街に住む。つまり、ブラジル国民の20人に1人以上がスラム街に住んでおり、その比率は農村部ほど低く、都市部ほど高い。
最大のファベーラは元日本人農場
ウィキペディア「Favelas no Brasil」(3)によれば、歴史的に見ると、ファベーラの爆発的な成長の時代は、ゼトゥリオ・バルガス政権時代の工業化プロセスにより何十万人もの主にブラジル北東地方からの国内移民がリオ連邦管区に流入した1940年代に始まり、1970年にファベーラがリオの都市周縁部に拡大した。
今日のファベーラの大半は1970年代に始まり、軍事政権時代の「奇跡の経済成長」により、ブラジルの最も貧しい州からより豊かな地域への労働者の農村流出のプロセスが頂点に達し、サンパウロ市やリオ市のような州都近郊(Periferia)に巨大なコミュニティが形成された。
ウィキファベーラ(4)によれば、ブラジル最大のファベーラはリオではなく、ブラジリア近郊にある「ソル・ナッセンテ」だ。《ブラジリアから35キロの距離にあり、最近までセイランディアの一部であったソル・ナセンテ・ファベーラには、2022年の時点で8万7184人の住民がおり、登録されている人口5万6483人と比較して29・7%増加したことを意味する。2010年国勢調査では第2位のロシーニャの場合、2022年国勢調査で集計された人口は6万7199人で、2010年に記録された人口より2・8%減少した》とある。
エスタード紙11月12日付《ソル・ナッセンテ:ラ米最大のファベーラの一つ土地収奪》(5)やウィキファベーラ(6)によれば、名前「ソル・ナッセンテ(日の出)」が示す通り、ここには元々農業地帯で日本人の農場があった。だが不法土地占有が1990年代初頭に勢いを増すなかで、新首都に野菜や果物をもたらした日本人農家はいなくなって名前だけ残り、ブラジル最大のファベーラとなって今では一つの市にまで認められた。
ちなみにサンパウロ市で一番大きいのはブラジル全国5位のエリオポリス(2万16世帯)、同6位のパライゾポリス(1万8912世帯)だ。

カヌードス戦争の置き土産としてのファベーラ
テラサイト11月3日付《ファベーラの日:その重要性を理解する》(7)によれば、なぜ11月4日がその日なのかといえば、ルフィーノ・エネイアス・グスタボ・ガルバン子爵(1831―1909年)が首都リオで上級軍事裁判所判事だった時、公式文書の中で初めて「ファベーラ」という言葉を使ったことに由来する。しかも、ブラジル最古のファベーラ「モロ・ダ・プロビデンシア」を指して侮蔑的な意味合いで使った。
彼は陸軍大臣まで務めた人物であり、そのような人がなぜ使ったかと言えば、カヌードス戦争(1896―1897年)に関係する。同ファベーラはリオ市中心部ガンボアに位置し、定住地を探していたカヌードス戦争の元兵士たちが住み始めたことから拡大したスラム街だ。
テラサイト6月22日付《ファベーラかコムニダーデか》(8)によれば、「ファベーラ」という言葉は、バイア州内陸部で起こったカヌードス戦争の影響を受けて、19世紀初頭にリオに出現した「非公式占領地域」に名付けられたことから使われ始めた。
同戦争で陸軍兵士らは「出兵すれば戦後にリオで住居を与える」との軍の約束を信じて参戦した。ところが戦争で勝利してリオに戻った後、軍は多くの陸軍兵士に住居を与えなかった。その結果、彼らは丘(モロ)の斜面にバラックの集落を建てて住み始めた。そのためこの地域のことを、カヌードス地方によく見られる植物ファベーラにちなんで、モロ・ダ・ファベーラとして知られるようになり、現在はモロ・ダ・プロビデンシアと言われるようになった。

ちなみに植物「ファベーラ」または「ファヴェレイロ」の学名は「Cnidoscolus quercifolius」(9)。トウダイグサ科の植物で、とげと白い花が上部に配置された低木だ。ブラジル固有種でブラジル北東地方を中心に分布している。
まさにカヌードス戦争の舞台となったカーチンガ(半砂漠地帯)で陸軍兵士を手こずらせた棘のある植物だ。陸軍にとっては、アントニオ・コンセリェイロ率いる熱狂的宗教コミュニティを壊滅させるために3回も出兵して敗北し、5千人の兵士を失った「痛い思い出」がある戦いだ。陸軍にとって当時「ファベーラ」という言葉には、それにつながる嫌なニュアンスが込められていたに違いない。
文化の源泉となり有名スポーツ選手も輩出
歴史的に見ると、モロ・ダ・プロビデンシアと呼ばれるようになる貧困地域で1839年に生まれたのが、ブラジル最大の文豪ともいわれるマシャード・デ・アシス(―1908年没)だ(10)。小説家、詩人として有名で、1896年にブラジル文学アカデミーを設立し、初代会長となった。
最近の音楽界ではファベーラ発のファンキがブラジルを代表する存在になりつつあるし、そのアーチスト(11)は数えきれない。
ファベーラをテーマにしたブラジル映画(12)は数知れず、特にフェルナンド・メイレーレス監督がヒットさせたシダーデ・デ・デウスを舞台にした映画『シティ・オブ・ゴッド』(Cidade de Deus、、2002年)も世界的に有名だ。
文化面だけでなく、スポーツ面でもファベーラ出身者の活躍は目立つ。最近でもリオ五輪柔道の金メダリストのラファエラ・シルバが、シダーデ・デ・デウス出身であることも知られている。
MCジョアンが作曲したファンキ「バイレ・デ・ファベーラ」は2016年に国内で大ヒットし、2020年の東京五輪で体操選手レベッカ・アンドラーデが銀メダルを獲得した際のテーマ曲にもなったことも記憶に新しい。
ファベーラは民兵組織や犯罪組織、麻薬犯罪者の巣窟というだけではなく、もっと多面的に注目されてもいい場所だと思う。(深)
(1)https://tanakanews.com/990618brazil.htm
(2)https://brasilescola.uol.com.br/brasil/favela
(3)https://pt.wikipedia.org/wiki/Favelas_no_Brasil
(4)https://wikifavelas.com.br/index.php/Maiores_favelas_do_Brasil
(6)https://wikifavelas.com.br/index.php/Favela_Sol_Nascente
(9)https://pt.wikipedia.org/wiki/Cnidoscolus_quercifolius
(11)https://www.last.fm/pt/tag/favela/artists
(12)https://www.adorocinema.com/noticias/filmes/noticia-159316/