《記者コラム》ブームの基礎作ったブラジル漫画家協会=マンガコンからアニメフレンズへ

果物マンガと勘違いされた1980年代
「1980年代の初めごろ、私たちが漫画とかアニメとか騒いでも、当時はブラジル社会では誰も知らず、『農家が多い日系人のことだから、きっとフルーツのマンゴー(ポ語でManga)のことを言っているのだろう』と思われていました」と笑うのは、ブラジル漫画家協会前会長の佐藤クリスチアネさんだ。
南米最大のアニメ漫画イベント「アニメフレンズ」には昨年約9万人が入場、今年7月に開催される第21回のプレミアム・パスポートは4日間で3500レアルもする立派なビジネスだ。昨年11月、サンパウロ市で開催された世界最大級のポップカルチャーの祭典「CCXP23」のメインゲストの一人は、日本からはホラー漫画界の巨匠、伊藤潤二氏が呼ばれた。現在ブラジルの日本祭りイベントでコスプレやアニメ関係を見ないことはない。
ブラジルではアニメ漫画やゲーム、Jpopのブームを迎えて久しいが、その基礎を作ったブラジル漫画家協会(佐藤フランシスコ会長、ABRADEMI)の存在はあまり知られていない。
同協会創立および手塚治虫ブラジル訪問の40周年を祝う講演会が3月17、24日にブラジル日本移民史料館8階で開催され、ジャーナリストで編集者兼漫画家のフランコ・デ・ローザさん(68歳)が60~70年代までのブラジルコミック界の歴史、現協会会長の佐藤さんが創立前後の経緯、妻で前会長のクリスチアネさんがアニメフレンズの前身イベント「Mangacon」、ブラジル学術界に漫画アニメ研究分野を切り開いたソニア・ルイテン教授らが次々に登壇した。その内容をかいつまんで、ここに紹介する。

軍政時代にこわごわ描いた漫画
先駆漫画家の一人、福江パウロさん(81歳、2世)も会場に姿を現した。1942年4月にサンパウロ州ヴェラ・クルス市生まれで、「日本から送ってもらった少年クラブを読んで育ち、物心ついた時には漫画家を目指していた。サンパウロ市やブエノス・アイレスの美術学校の通信教育も受けて18歳の時に出聖し、会計事務所で4年間働きながら、できたばかりのパナメリカーナ美術学校に入学した。そこで先生をしていたイラストレーターから、リベルダーデ区に『美術家のバール』があると聞き、そこに通ううちに現役のコミック作家にも知り合い、自分でも描き始めた」という。
当地漫画界の先駆けの一人、南ケイジさんは1964年に最初の漫画出版社Acaraiをサンパウロ市セントロの旧日本人街コンデ・デ・サルゼダス街に設立、1、2年後には有名なEDREL社に変えた。ここが日系漫画先駆者らの根城となり、軍政時代にも関わらず、たくさんの漫画を出版していった。福江さんは「ボクは最初セリフを手書きする仕事から始めた。活字じゃ雰囲気がででない。手書きでセリフを書いたんだ。僕は手が早くて重宝がられた。1日に32ページ分も書いたことがあった」とも。
軍政時代は女性の裸写真はご法度で、フランシスコさんは「日本から送られてきた男性雑誌のグラビアページなども女性の胸が露出していたりすると、検閲官がその部分だけ見えないように黒塗りしていたい時代だった」と振り返る。
福江さんは「僕らは最初こわごわエロ漫画を描いていた。でも写真はダメだったけど、漫画ならそのものさえ描かなければ問題なかった。だからギリギリの線を見極めながら描いていた」と振り返る。写真グラビアは禁止で漫画は許されていたので、逆に漫画は飛ぶように売れたという。ものによっては4万部を印刷していたという。
だが福江さんは「僕も警察に捕まり、拘置所に3日間入れられたこともあった。ただ捕まって何の取り調べもなく、3日後に釈放となった。どうも漫画の助手として使っていたブラジル人が左派活動家だったらしく、何も関係ないボクまで引っ張られたようだ」と振り返る。
フランコさんは「ブラジルにおける漫画家の先駆者は故瀬戸クラウジオ、故生駒フェルナンド、福江パウロの3人だ」と断言する。彼は日本のヒーロー、ウルトラマンにインスピレーションを得た漫画スタイルの物語である「ウルトラボーイ」が代表作だ。
EDRELで働いた後、瀬戸らがパラナ州都クリチーバに移転し、グラフィパール社を設立したのでそちらに移った。「70年代、クラウジオはいつも同じスタイルを貫いていた。特に侍モノが大成功していた。私は彼のスタイルに強く影響を受けた」と告白する。彼は「今のブラジルコミック業界の出版物の6割は日本の漫画の影響を受けている」とみている。

顔の見えない日系漫画アシスタントを表に出す
そんな1978年にソニア・ルイテンさんがUSPでマンガ研究を正式に始め、それまで前にアクセントがある「Manga」だったポ語表記を、「Mangá」という後ろアクセントに変え、日本の大学に交換研究に行くなどの繋がりを作った。
クリスチアネさんは「1980年頃、マウリシオ・デ・ソウザ事務所やABRIL社ディズニー出版部に行くと、スタッフの半分が日系人であることに驚いた。コミック出版物を描いている半分が日系人なのに、まったくその名前が表に出ない存在だった。プロとして絵を描いていても名前が出ない。それなら名前を出せる展示会をやろうという話になって、1981年から文協を会場にやるようになった。それが1984年には正式に団体として設立された」とABRADEMIの創成期を振り返る。
当初、文協でもプロとして漫画を描く職業がブラジルにあるとは信じてもらえなかった。フランシスコさんは「最初は7人のプロのイラストレーター、漫画家の日系人を連れて、文協の役員に紹介し、ようやく認めてもらえ、委員会の一つに加わった」という。当地初の同人誌も作り始めた。
展示会を3回したところで、4回目が突然キャンセルされた。フランシスコさんによれば「僕らは文協の委員会の活動として無料で会場を借りていた。有料で賃貸する企業が使うことになり、キャンセルされてしまっていた。なのに、それを知らされなかった」という事件が起きた。
1980年前後だけに、漫画は「きちんとした文化活動」という認識がされておらず、「子供の遊び」として軽くみられていた可能性がある。当時の文協の尾身倍一会長の提案で、団体登録して外部組織として文協を使うようにすれば、キャンセルされることはないとの発想から、16人の創立会員で正式団体として4月に発足した。
日本でも文化の本流である映画や小説などと違って、漫画はもともと「サブカルチャー」として出発した。それが本流を凌駕するような影響力を持つようになったのは、もっと後のことだ。
ブラジル初のファンイベント「Mangacon」
同協会が主催したブラジル初のファンイベント「Mangacon」は、1996年10月13日に静岡県人会館で開催され、100人余りが参加した。同協会サイト《Mangacon1》(1)に詳細がある。もともとは漫画講座の優秀作の表彰式という身内イベントで、入場無料、物品販売なしの手作りイベントだった。
それを拡大する形で第1回が開催された。クリスチアネさんは「1991年にロスでアニメコン91が始まっていて、日本から漫画家の松本零士や大友克洋を呼ぶなどビジネスベースの大イベントが始まっていました。我々も何かやりたいと思っていたので、ファンに集まって楽しんでもらい、マンガ、アニメの認知度を高めることを重視した」と語った。
おりしもブラジルでは90年代初頭から聖闘士星矢、セーラームーン、アキラなどのアニメに人気が集まり始めた。2021年12月13日付ESPMサイト記事「ブラジルにおけるアニメの普及」(2)によれば、1990年代初頭にマンシャッテTV局が「聖闘士星矢」(Os Cavaleiros do Zodíaco)「キャプテン翼」(ブラジル名Super Campeões)を放送したことが大きかったという。
当時の同局の映画部門責任者エドゥアルド・ミランダ氏は《ブラジルのアニメ現象は〝AC(星矢前)とDC(星矢後)〟(A.C e D.C, antes de Cavaleiros e depois de Cavaleiros)に分けられる》と語っている。一般的にACは「キリスト生誕以前」、DCは「キリスト生誕以後」であり、それに例えるほど影響力があった。「キャプテン翼」もストーリーにブラジル人選手が多数出てくることから当地でも特別に人気があった。
その結果、リオからブラジル人のファン集団がバスを借り切って参加するなど予想外の反響があった。「第1回は表彰式中心で行ったのですが、反応がとても良かったので第2回からMangaconと名前を変えました」。
クリスチアネさんは、「私たちは常に日本文化の一部としてマンガ・アニメを位置づけ、日系社会の和太鼓や岸川ジョルジさんの剣道を呼んで一緒にして紹介した。だからブラジル以外ではマンガ・アニメはただのエンタメですが、ここでは日本文化の一部として認識されています」という点を強調した。
次第に、凝った展示や音響・照明機材を設置し、シンボリックな入場料を徴収することになり、初のアニソンショーやコスプレ大会などが始まった。優勝者には日本行き航空券、コスプレ集団のリベルダーデ街中行進、アニメ声優を顕彰する賞など、のちのアニメフレンズに続くファン大会イベントの内容が含まれた画期的なものだった。

危険なまでに盛り上がるイベント
1997年10月の第2回ではコスプレ衣装の参加者が一気に増え、部屋が狭くなり、主催者側として危険性があると判断し、クリスチアネさんは「とっさの思い付きでしたが、ステージから『コスプレーヤーの皆さん、その衣装のままでリベルダーデを一緒に行進しませんか!』と呼びかけたところ、何十人もが参加してくれました。あの当時、初めてのことだったので町ゆく人々は奇異な顔で見ている人もいました。今ではリベルダーデをコスプレ姿で歩く姿は日常になりましたね」と笑う。
声優表彰に関しても彼女は「それまでここでは声優とファンが直接に接触する機会がありませんでした。それを作り、第2回から吹き替えショーも始めました」と振り返る。アニメの名場面をテレビに映しながら、声優がそれに声をかぶせるショーで、一気に声優の認知度が沸騰した。
アニソンショーは第1回から行われた。「コロニア歌手の森川みゆきさん(後にラジオバンザイの司会進行者)にお願いしてアニメのテーマを歌ってもらいました」。第2回からはニュー演歌をもともとレパートリーにしていた山尾セリナさんに出演してもらった。今は日本のロックバンドJAMプロジェクトで歌っているリカルド・クルスや、ブラジルでは特撮ショーで知れている宮原ジョーゴも同イベントのAnimekeコーナーで歌い始めた。「有名な音楽家ルカス・リマがこの時、一般来場者として入場料を払って参加していました」と思い出す。

さらに「予想外に外国からの来場者が多く、南米ではアルゼンチン、ぺルー、欧州では特にドイツ人の参加が増えて驚きました。その結果、ドイツ語、スペイン語、英語、フランス語の通訳対応やガイド配置までした」。5回まで静岡県人会で開催され、最後は会館全部を借り切る形で1千人以上が来場した。荷物預り所、救急医療対応など本格的な体制になった。
「第5回ではファンの熱気がすごく、会館に熱気がこもって壁面が汗をかくような状態にまでなりました」と回想する。だが2000年の第5回が最後になった。フランシスコさんに辞めた理由を聞くと、「来場者が激増して対応が困難になりました。あまりに大きくなりすぎ、協会としての限界を感じ、辞めることにしました」とのこと。

マンガコンからアニメフレンズに飛躍
第4回から歌手として参加していた近澤タカシはその盛り上がりを内部から知っていた。彼が自分の会社ヤマトでビジネスとして2003年からアニメフレンズを始めた。Mangaconの声優表彰を「プレミオ・ヤマト」(3)として引き継いた。そして第1回から日本のプロのアニソン歌手を呼んだ。
クリスチアネさんは「私たちは第1回アニメフレンズを手伝いました。メインアトラクションのアニソンショーの舞台裏で、面白い光景を見ました。影山ヒロノブさんや串田アキラさんは、当時外国人の前でショーをやった経験があまりなく、舞台裏ではまるで新人歌手のように緊張していました。でも客席から名前を連呼する声が響いてきて、思い切ってショーを始めるとブラジルの観客の熱い反応に感応してまるでロックコンサートのような熱狂状態に。お二人がその成功体験を日本で広めてくれたおかげで、今では毎年いろいろなアニソン歌手やJpopバンドが来てくれます」と語った。へヴィメタル調でアニソンを演奏して世界で活躍するJAMプロジェクトの手ごたえがここであったのだろう。
SNSもない時代だったがあっという間に評判が知れ渡り、南米中からファンが集まるようになった。ただし当地ビジネスだけに、現場レベルでは出店者にはアニメDVDコピー販売などの海賊版問題が付きまとった。アニメフレンズは2018年以降、主催がMaru Divisionに組織が引き継がれ、開催場所をパルケ・アンニェンビーに変更し、よりビジネスベースで成功し、現在に至る。
手塚治虫が言い残した言葉を胸に
同協会が発足した1984年9月に手塚治虫がブラジル訪問し、ABRADEMI向けに漫画講座を開いてくれた。講座の最後、国際交流基金スタッフや付き人らに催されて一旦は退出した手塚治虫が、なぜか一人だけに会場に戻ってきて、フランシスコさんを捕まえて二人だけで話をしたという。
妻クリスチアネさんは「この話を公表するのは今回初めて。フランシスコはすごく神妙な顔をして聞いていたので、私たちは一体何の話をしているのかといぶかっていた」と思い出す。
フランシスコさん本人に尋ねると、「手塚先生からは『ブラジルで漫画がどうなるかは、漫画家協会やあなたに責任がある。マンガ愛好家サークルはロスにもあるけど、それ以上に漫画の人気がブラジルで長持ちするようにするには、力をいれないといけないね』と言われました。それまではただ単に『面白いからやろう』と思っていたのですが、〝マンガの神さま〟からそう言われて嬉しい半分、責任を強く感じました」と振り返った。
同協会は夫婦が会長職を交互に努め、漫画家の著作権を守りながら活動してきた。手塚治虫は同協会が将来果たすであろう役割を見通していたのかもしれない。(深)
(1)https://www.abrademi.com/index.php/mangacon-i-o-1o-evento-de-manga-e-anime/
(2)https://jornalismorio.espm.br/sem-categoria/a-popularizacao-dos-animes-no-brasil/