3月15日=民政復帰40周年祝う=緊迫の移管前夜を回顧

21年間の軍事独裁政権の後、民間人のジョゼ・サルネイ氏が副大統領かつ暫定大統領に就任した1985年3月15日から40周年の15日、三権広場にあるタンクレド・ネヴェス氏を祭った祖国と自由の廟の前で再民主化40年祝賀会が行われ、サルネイ氏顕彰と共に、民主主義の重要性やその継続を訴える声が挙げられた。(1)(2)(3)(4)(5)

サルネイ氏の大統領就任は民政復帰への大きな節目だ。サルネイ氏はタンクレド氏の副候補だったが、タンクレド氏が就任前夜に強い腹痛で入院。手術も必要だったため、副大統領就任と同時に暫定大統領となった。
タンクレド氏の入院と、同氏が回復するまでの暫定大統領職に就くことになったと知らされたサルネイ氏は、眠れぬ夜を過ごし、短い就任演説後、タンクレド氏が選んだ閣僚達の就任式も行った。
サルネイ氏は就任演説で、「私と今宣誓した議員達の誓約は、我々の指導者、我々の指揮官、我々の偉大な政治家の誓約であり、この瞬間に我々の願いを一つにする旗、タンクレド・デ・アルメイダ・ネヴェスの旗である」と述べた。
だが、タンクレド氏は大統領に就任することもなく、4月21日に75歳で死去。当時54歳だったサルネイ氏は、軍事政権後、初の民間人の大統領として、1990年3月まで政権を率いた。
民政復帰への歩みは政界のエリートと軍関係のエリートの間の交渉を通して、ゆっくりと段階的に進められた。交渉は陸軍出身のエルネスト・カイゼル将軍(1974~79年)の政権下で始まり、ジョアン・バチスタ・フィゲイレド将軍(1979~85年)の政権下まで続いた。
民主主義実現のための画期的な出来事は憲法改正で、直接投票による大統領選の復活を決めるダンテ・デ・オリヴェイラ改正案を議会で承認するための「ジレッタス・ジャ(Diretas Já)」運動も起きた。1984年、改正案承認はならなかったが、独裁政権が終焉に向かっているという感覚は街頭デモで高まり、85年1月15日には上下両院議員の投票による新大統領選挙が行われた。
野党候補のタンクレド氏は自身の政党であるブラジル民主運動(MDB)その他の野党、自由戦線の政治家らを含む民主同盟と呼ばれる政治協定をまとめ、軍事政権を支持した社会民主党(PDS)候補だったパウロ・マルフ氏のシャッパ(連立名簿)に勝利した。これにより、再民主化が進み、年200%超のインフレに苦しむ国に大きな変化が起こる期待が生まれた。
だが、文民大統領への権力復帰である新共和国が始まろうとしていた矢先、それも大統領就任前夜にタンクレド氏が病に倒れたため、軍が権力移譲を拒否することへの懸念が生じた。大統領代行の可能性があるのはサルネイ副大統領とウリセス・ギマランエス下院議長だったが、どちらも軍の一部に気に入られていないことを知っていたウリセス氏は15日未明、上院議長や国防相に選ばれていた陸軍司令官と共に当時の官房長官のレイトン・デ・アブレウ氏に会い、暫定大統領就任を辞退。暫定大統領となると決まったとサルネイ氏に伝えられたのは午前3時過ぎだった。
サルネイ氏は15日も、軍の一部が就任を阻もうとしていたことを含む就任前夜の出来事や就任式の様子を克明に覚えていると発言。2022年選挙後のクーデター計画疑惑に関して訊かれると、政権移行時に作った制度は非常に強力で、弾劾を2度、2023年1月8日の三権中枢施設襲撃などの法の支配を変えようとする試みを2度乗り越えてきたし、最高裁が同件の審理を始めようとしていると言及。この制度は「有害な出来事」を克服する強さを持っているとも語った。
ルーラ大統領は、サルネイ氏は独裁政権を懐かしむ人々からの絶え間ない脅威にさらされながら統治したが、並外れた手腕と政治的責任感で1988年の国民憲法を起草し、伯国の歴史を変える条件を整えたとの言葉で「権威主義への回帰」を企む人々から民主主義を守る必要があると強調。民主主義は毎日祝われなければならないとも述べた。(6)(7)ダヴィ・アルコルンブレ上院議長も「民主主義は自由の基盤、憲法の最大の保証者、国民の最大の功績であり、制度を監視する仕組みであると共に、投票によって統治者を選ぶことを可能性にする体制」との言葉で、国の基本的柱としての民主主義の重要性を強調した。(8)
選挙高裁は14日の審理の中で民政復帰40周年を祝い、上院と下院は17日に再民主化40周年を祝うセッションを持つなど、様々な場で民主主義の重要性を確認し、擁護する時が持たれている。(9)(10)(11)