《記者コラム》また一つ消えた日本語図書室=島崎藤村の石碑と日本病院=最後に借りたのは昨年の6月

利用者名簿では昨年6月が最後の貸し出し
「もう図書室を使う人がほぼいなくなってしまいました。会長の判断で始末することになったので、残しておくべき本があればぜひ持って行ってください」――2月半ば、北海道協会(平野オストン会長)の元副会長、馬場光男さん(86歳、北海道河東郡出身)からそう言われ、ドキッとした。もちろん日本語のそれだ。
1世が高齢化して減る中、日本語世界が日々狭まっていると痛感する。私が渡伯した1992年、日系御三家はどこも日本語で会議をやっていたが、今では使われない。それが意味するところは、邦字紙読者もいなくなっていることだ。
馬場さんは名残惜しそうに「80年も前から使われてきた図書室ですが、ついに閉鎖する時が来ました。残念ですが、時の流れには逆らえません」と言われ、その通りだとしみじみ思った。ブラジル北海道協会が創立したのは1939年と古く、北海道からは計1万6261人もブラジルにやってきた。県別移住者数では堂々の4位だ。それだけ多くの日本人がやってきたから図書室が必要になり、使う人もたくさんいた。
ブラジル日報では置く場所もないので、サンパウロ人文科学研究所にも声をかけて、一緒にコロニア出版物などを中心に引き取ることにした。2月27日にサンパウロ市南部の北海道協会会館へ一緒に行き、利用者名簿を見ると最後の利用者が昨年6月だった。
事務方のエレナさんの説明によれば「昨年まで利用者は3人いましたが、一人はガンで亡くなりました。皆80歳以上です。ボーイスカウトが毎週ここで日本語教室を開いていますが、本を読むレベルの人はいませんし、若い人は誰も日本語を読みません」とのこと。
棚を見ると、開道一〇〇年記念事業の一つとして18年がかりで編纂された『新北海道史』全9巻(1969―1981年、道庁道史編さん室)を始め、『北海道新聞縮刷版』数年分、『グラフィックカラー 昭和史』全15巻(研秀出版、1990年)、『浮世絵大系』全17巻(集英社、1975―76年)など発売当時は高価だった全集モノがズラリ。全部で1500冊余りの日本語書籍が並んでいた。

気になった『国民聖典やまと心』『南十字星』
日系社会の出版物も棚二つ分ほどあり、そこから目ぼしいもの20冊ほどを選び、当協会の本棚に移した。コラム子的に気になった日本の出版物の一つは『国民聖典やまと心』(中山敬三編、明治図書出版協会、1935年)だ。内容は、1871年から明治天皇の侍読となり、以後20年にわたって天皇陛下へご進講を行った元田永孚(もとだながざね)の講義録だ。
天皇とは、国体とはどうあるべきか、どのような哲学思想を持つべきかという帝王学の講義内容を一冊の本にまとめたものだ。これを通して戦前の日本の国体や精神を国民にも広く学んでもらおうと出版された。
それを、戦前移民が大事にブラジルまで持って来て、大切なものだからと亡くなる前に図書室に寄贈したものが、本棚の片隅に何気なく置いてあった。きっと元々の持ち主は祖国への情熱にあふれた勝ち組で、故郷北海道を想っては涙を流し、子どもを日本人のように育てたいとおもってこの本に書いてあることをかみ砕いて子どもに紐解いていたに違いないと想いを馳せた。
もう1冊はコロニア出版物『南十字星』第1号(1998年、ブラジル藤村会)という小冊子だ。古いものではないが、今年年頭約200人もの従業員を解雇して退職金などが払えずに問題になっているサンタクルス日本病院に関係した内容だったので、ついつい読んでしまった。
島崎藤村は1936年アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された国際ペンクラブ大会に日本代表として出席した折、帰路サンパウロに立ち寄り在留邦人と交流した。その際、自ら選んだ古歌を4首寄贈した。この藤村直筆の和歌と、その反対側の面に笠戸丸移民で当時生存していた人たちの氏名を刻んだ石碑を、日本移民30周年を記念して1938年に日本病院(現サンタクルス日本病院)の庭に建立した。
島崎藤村(1872―1943年)は詩人や小説家として活躍し、代表的な自然主義作家として『破戒』や『春』、歴史小説の大作『夜明け前』などの作品がある。

島崎藤村が在留邦人に贈った和歌4首
そのような、サンタクルス日本病院とコロニアの深いつながりを証明する内容がこの冊子には書かれている。同石碑にどんな古歌が刻まれているのか知らない人も多いと思うので、以下、書き出して解説してみる。
《天(あま)さかる鄙(ひな)の長路(ながじ)ゆこひくれば明石の門(と)より大和島見ゆ》(柿本人麿)
作者は飛鳥時代の歌人で、歌意は、遠い田舎の長い道のりを故郷恋しさにやって来ると、明石の海峡から故郷大和の山々が見える、というもの。柿本人麿が、瀬戸内を旅した際、遠く西からの船旅で、ようやく彼方に懐かしい大和の山々を目にした時の感慨を詠んでいる。遠くブラジルまできた日本移民が、故郷に帰る際の感激に重ねて選ばれたのではないか。
《時しらぬ山は富士の嶺(ね)いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらむ》(在原業平(ありわら の なりひら))
作者は平安時代前期の歌人。意味は「季節をわきまえない山は富士だ。(五月末なのに)今をいつだと思って、子鹿のまだら模様のように雪が降り積もるのか」。富士の上の方は初夏でも雪が降るように、ブラジルでは冬でも汗をかくほど暑い日があるという季節の違いの含みを持たせたのか。
《大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけてちるかも》(源実朝さねとも)
源実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男。兄頼家が追放され、12歳の若さで第3代将軍になるものの、28歳のときに甥公暁(くぎょう)に暗殺された悲劇の将軍だ。意味は「海岸の磯にとどろくように打ち寄せる波、その荒波が(岩にぶつかって)くだけて、裂けて、(細かなしぶきとなって)散っていることよ」。日本移民という大波が、ブラジルという磯にぶつかって、裂けて砕け散っている様を重ねたのかもしれない。
《道のべの清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ》(西行法師)
平安時代の終わりから鎌倉時代の初期に活躍した「西行法師」の作品で、道のほとりに、清らかな水が小川となって流れ、柳が涼しい木陰を作っているところに、わずかな間休もうと立ち止まったのだが…、あまりに気持ちが良くで結局長居してしまったという含みを持たせた内容。
柳の木陰に涼を求める、さわやかな夏の歌であり、亜熱帯のブラジルにおいて日系社会は、日本人には〝柳の木陰〟のような存在であると示唆しているのかも。
「異郷にある人々が碑の前に足を停め、母国の空をしのぶたよりに」
島崎藤村は「置土産」というブラジル訪問記を書いており、そこには次のような一文がある。
《いささかの旅の土産として、わたしはこの南米の地に置いて行くために「大和言葉の碑文」なるものを国から用意してきた。(中略)同胞第二世が少年少女のためにも、これは何より良い土産とブラジル在留の諸氏によろこばれたのはうれしかった。いずれ適当な石を見立てて、石碑の表面にはその大和言葉を、裏面には騾馬文字(ローマ字)にて同じものを刻したいとの相談もあった。(中略)石を一つごろりとそこにころがして置いたような意匠のものでも出来て、やがてこの異郷にある人々が碑の前に足を停め、母国の空をしのぶたよりともして呉れるような日がきたら、どんなにたのしかろう。こんなめずらしい草や木の香でいっぱいな植民地に大和言葉を刻んだ石を置いて、ここにも新しい世界のあることを語るような日が来たら、これまたどんなに楽しかろう》
ここから一つ分かることは、以前からこの石碑に関しては「藤村4首の面と笠戸丸移民氏名の面のどちらが表側か」という議論があったが、実は藤村の碑の話の方が先にあったということだ。だが建立費用を集める手前、「笠戸丸移民碑」と言った方が寄付を集めやすいという事情もあり、あえてうやむやにしてきたのかもしれない。
その石碑の除幕式の際、笠戸丸組を代表して香山六郎氏は「笠戸丸の碑は何も笠戸丸組が偉いと誇る為の碑ではありませぬ。第一回の移民共が来た時、七百九十八名が、現存しているもの二百三十四名になりました。その開拓戦線の云わば道しるべ、道端に名前の地蔵様が立っておられる様な道しるべに過ぎぬのです」と挨拶すると、当時の坂根総領事や海興支店長ら来賓はホロホロ涙を流しながら涙声で挨拶し、参列者一同までホロリとさせられたと書かれている(35頁)。
先日、解雇された従業員たちが病院正門前で抗議行動をした際も、コラム子にはその石碑が目に留まった。その時、もし病院経営が日系人の手を離れても、この石碑は文協庭園やガルボン街の東洋庭園にぜひ移設してほしいと願ったのを思い出し、この小冊子をじっくりと眺めた。
ブラジル郷土色を含んだコロニア語も消滅へ

どんなコロニア本にも「この歴史だけは残したい」という篤い気持ちに駆られて書いた移民の想いが込められている。このような貴重な歴史が書かれた本が「子孫は日本語が読めない」という理由で捨てられるのは、もったいないと思う。本来なら、子孫にこそ読んでほしいものだからだ。
このような貴重な内容がかかれた数百冊のコロニア書籍や千冊余の日本出版書籍を所蔵する図書館が無くなったことが意味するのは、単に「日本語世界が狭くなった」ということではないと思いたい。次代を担う若い世代がそのスペースを使って活発に県人会活動を行うために開放されるのであってほしい。
日本語には、島崎藤村がこだわった古来よりの大和言葉のほかに、後に中国から来た漢語(漢字熟語)、それ以外の外国語から来た外来語(英語などのカタカナ)がある。大和言葉には「海(うみ)」「夏(なつ)」「ありがたい」「胸に響く」「しみじみ」「つくづく」「ほとほと」など訓読みするものが多く、しゃべり言葉として使って通じやすく、詩歌で大事に使われる傾向がある。
中国から来た漢字熟語は書き言葉に向いており、主に音読みをし、頭に入りにくく、会話の際に伝わりづらい。ブラジルでは、ここにポルトガル語の外来語カタカナが混じって、ブラジル郷土色を含んださらに豊かな「コロニア語」が生まれた。だが、それすらも日本語世界と共に消えようとしている。
戦前移民には強かった「やまと心」も、今ではすっかりすたれた。それどころか日本語世界自体が、今では日系社会から消えつつある。島崎藤村石碑の存在すら忘れ去られつつある現在のサンタクルス日本病院や今の日系社会を、島崎藤村が見たら何と言うだろうか。(深)