帰化して三重知事選挙に挑戦=「日本の姿」問う石川剛さん(2)=知らずに食べたキャットフード
初来日で剛に改名
「性格にぴったりなので剛という名前がいい」-1990年に16歳で初来日した時、戦後移民である父親にそう言われて、まっすぐで一本気な性格にちなんで「剛」という名前を在留資格証明に公式登録した。ブラジルではホネイ・アラウージョ・イシカワ(Roney Araujo Ishikawa)の名で周囲に親しまれていたが、来日時に登録を行った群馬県では、当時、カタカナ名では認められず日本名を付けた。
石川さんの父親は仕事で忙しく、ブラジルの事情も分からず、サンパウロの日本総領事館に結婚届も子どもたちの出生届も提出していなかった。剛さんは来日前に総領事館で領事と面談すると、「日本国籍留保」ということで3年のビザを取得した。後に日本国籍を正式に取得した。
「父はブラジル人妻とその家族に囲まれて、家では一人外国人として浮いていました。今なら異国で一人外国人として過ごしていた父の気持ちも分かります」
初来日でキャットフードを食べた2週間
父方の祖父が体調を崩したことで父親は先に日本に帰国しており、後を追う形で剛さんと長兄も日本に来た。
群馬県太田市の自動車部品メーカーで半年働いた後、桐生市の電子部品工場で18歳まで働き、その後、父親がいた神奈川県に引っ越した。以後、今日まで建設業界で測量や溶接の仕事を続けてきた。
石川さんはサンパウロで日本人コミュニティの中でも生活していたが、母親はブラジル人、父親も忙しく、日本語を学ぶ機会はほとんどなかった。そのため、日本に来た当初は日本語がほぼ分からない状態だった。中でも苦労したのは食事だった。
最初、石川さんが暮らしていた群馬県の田舎町では、外国人に対して警戒感を抱く雰囲気があり、とりわけ「日本人の顔をした日系人」に対して冷ややかな視線が向けられることが多かった。外国風な顔立ちの石川さんには、そこまで強い風当たりはなかったが、日本語が話せず、食事について誰かに尋ねることもできない。食料品店に行っても何を買えばいいのか分からず、結局、牛乳とパン、インスタントラーメンばかりを食べていた。
入社して間もない頃、石川さんが会社でご飯とみそ汁、そして缶詰を食べているのを見て、年配女性が目を丸くして「だめだよ!」と繰り返していた。石川さんにはその意味が分からず、後に職場の人から、「その缶詰、キャットフードだよ」と知らされた。
「ブラジルのカルネ・デ・ラッタ(肉の缶詰)に似ていたので。二週間ほど色んな味を試しました」と今では笑って話せる。
日本に来て半年が経つ頃には、日本語にも少しずつ慣れ始めた石川さん。「日本語の勉強もできるし、運転免許も取れるから」と父親に勧められ、18歳の時に自動車教習所への入学を申し込んだ。最初は「日本語ができないから試験に合格できない」という理由で、入学を断られたという。それでもあきらめずに教習所の門をたたいた結果、ついに入学が認められ、試験にも一度で合格することができた。(続く)