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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(229)

2025年8月20日

 この時、一部の者が反撃、乱闘になった。それを別の監房から見ていると、

 「十五分ほどすると(殴られた人々が)犬が追われるように、広場に追い出されてきた。後頭部を割られ鮮血でシャツを染めている者、天日の下に昏倒する者、腰をかがめて渋面の者……直視できぬ光景であった」

 という。(吉井碧水手記より)

 騒動が鎮まると、全員に重労働が課せられた。その間、看守たちが監房に入り、外で重労働中の人々の金品を大量に持ち去った。(私物の持込みは許されていた)

 が、これは押収ではなく略奪であった。奪われた現金は全額戻らず、物品が一部返されただけであった。

 看守の中には、後で、近くに被害者がいることに気づかず、自分の稼ぎ額を仲間に自慢しつつ盗んだシガレット・ケースを取り出して、煙草を吸う者もいた。

 この暴行、何故起きたのか?

 実は、この少し前、所長がサンパウロへ出張したが、帰島した時から様子がおかしかった。後日、被害者が面会に来た人間に調査を依頼すると、後日、

 「所長が、サンパウロへ出張した時、敗戦派から、アンシエッタで日本人が島を乗っ取ろうとしていると通報があり、まとまった額の金も渡された」

 という情報が伝えられた。

 なお、この看守による集団暴行で、三十数人が重軽傷を負い、内一人が回復せずサン・ジョゼー・ドス・カンポスの刑務所病院で死亡している。

 池田福男二十四歳。四月一日事件に加わったポンペイアの池田満の弟である。

 すでに肋膜を病んでおり、入院が決っていたが、暴行中、殴打され悪化した。

 彼は襲撃事件とは何の関係もなかった。つまり無実の罪で検挙され、この島へ流されて来ていた。そして殺された。

 最後の襲撃

 一九四七年。一月六日。

 サンパウロ市内の(先に古谷重綱が襲われた区の)アクリマソンで森田芳一の義弟鈴木正司が誤って射殺された。

 襲撃者二人は森田を狙い、間違えて森田の幼女を抱いて散歩していた鈴木を撃ってしまったのである。直後、自首して出た。

 その二人はパウリスタ延長線のキンターナから来た蒸野三蔵(太郎の弟)、そして七章で名の出た三岳久松であった。

 二人を送り出したのは(前章までに度々名前の出た)押岩嵩雄だった。

 当時、彼は警察から厳重な監視を受けるようになっていた。昼間は、家の前に警官が立つ。夜でも、入ってきて寝台の下まで覗き込む。鉄道の駅では切符を売ってくれない。旅行は馬を使った。

 押岩は語る。 

 「そういう状況下であったが、新たに二人の青年が同志になった。蒸野三蔵と三岳久松だ。

 三人の間で、もう一度サンパウロでやろう、ということになった。ワシが、

 『森田芳一をやろう』

 と言って、そうなった。その後で、

 『これで終わりにするゾ』

 と…。

 この時もワシは、キンターナに残ることになった。

 二人はサンパウロの洗濯店で働きながら機会を待った。

 いよいよ実行することになったが、間違えてクニャードをヤッテしまった。可哀想なことをした。森田の娘を抱いて朝の散歩に出たクニャードを、森田と勘違いしたのだ」 

 この襲撃に関し、筆者は三岳久松からも話を聞くことができた。

 事件から六十一年後の二〇〇八年のことである。三岳は八十九歳で、サンパウロで暮らしていた。

 彼も臣道連盟との関係は、明確に否定した。

 「臣道連盟は関係ない。第一、臣道連盟など知らなかった。ワシの兄弟の中には入っていたのが居て後で知ったが、離れて暮らしていたので、聞いていなかった。

 誰かから命令されてヤッタのではなく、全く自分の意志でヤッタ。 

 サンパウロでは、三カ月ほどして、いよいよ実行することになった。

 アクリマソンの森田の家に行って声をかけたが、応答がないので、諦めて引き返した。公園の方に歩いていると、三蔵が向うから来る男を見て『森田だ!』というので撃った。

 が、撃った瞬間については、頭がボーとしていて、一発撃ったこと以外、覚えていない。その男が抱いていた幼女のことも記憶にない。

 直後、それを見ていた住民が怒って、殺到してきた。

 そこは坂道になっていて、上の方から、大勢の人間が、その辺に積んであった薪を手にとってワーと駆けてきた。(つづく)


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