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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(243)

2025年9月9日

▽平素、高位高官の処遇を辱(かたじけ)なくするは一朝事あるに際し、身命を捧げるためであり、自己の経歴に対する特権ではない。彼らのために移民が送られたのではなく、同胞のために大使や総領事が派遣されたのである。 

▽現下のブラジルは、どう贔屓目に見ても、日本人が八紘一宇の精神を体得し、これが宣揚に努める場として適当とは思われない。在伯同胞は、戦勝後は日本本国あるいは大東亜共栄圏へ移動することが得策である。(以上)

 当時、邦人の殆どは、一九三〇年代、排日法が成立、さらに日本語教育禁止令が出たことで、この国に失望していた。さらに日本語新聞の発行停止で追い撃ちをかけられた。

 戦時下は、様々な迫害を受け、国家の背景を失った者の惨めさを、存分に味わった。

 日本の大使、総領事ら外交官は帰国してしまった。留まった御三家のトップも沈黙してしまった。

 「偉い人」は結局、頼りにならなかったのである。その中で、心の支えにしていたのは、祖国の勝利だけであった。「日本が勝った暁には…」と、それにすがって歯を食いしばってきたのだ。

 ところが、戦争が終るや突如、敗戦を認識せよと、右の沈黙組が言い始めた。

 皆、混乱した。

 「何を今更、のこのこ出てきて…」

 と不快でもあった。

 そこに、確固たる戦勝説や大東亜共栄圏建設への参加つまり祖国への帰国、再移住計画を掲げて、臣道連盟が現れた。

 この計画は、この時、急に生まれたものではない。戦前、邦人社会で唱えられ、戦中、温め続けられた「海南島への再移住」構想と同じものである。そういう下地があった。

 その邦人たちに、連盟は、右の吉川メモを印刷して配布した。その中で特に読む者の心に響いたのが、大使や総領事をきびしく指弾した部分である。これで溜飲を下げた。

 連盟への加盟者は、鉄粉が磁石に吸い寄せられる様に急増した。

 そうなったのは、興道社という前身があって一応の組織があったこと、創立者に日本陸軍の軍人たちが名を連ねていたこと、本部の理事が積極的に各地を回って会員を募ったことにもよろう。

 理事長の吉川順治は拘置所にいた時、中風を患い、遠隔地へ赴くことはできなかったが、連盟は吉川の軍服姿の写真を、ブロマイドの様に配布した。それだけ人気が出ていたということであろう。

 彼ら加盟者たちは、この団体が、やがて秘密結社・テロ組織扱いされるなどとは、夢にも思っていなかった。

 臣連の発足時、理事長の吉川順治は未だ拘置所に居た。ために副理事長になった山内清雄が代理をつとめた。が、間もなく山内は脱退、在郷軍人会を設立する。こちらの会員は百数十人ていどであった。(二、三百人とする資料もある)

 山内が去ったあと、これに代わって理事長の代理的な存在になったのが、専務理事の根来良太郎と総務理事の渡真利成一であった。

 ほかに非常勤理事として、地方支部の木村貞治(セントラル線カンポス・ド・ジョルドン)、尾川善作(パウリスタ延長線マリリア)、佐藤正雄(同ポンペイア)、青木勘次(同ツッパン)、河島作蔵(同ルセッリア)、和気勘治(ノロエステ線ミランドポリス)、谷田才次郎(北パラナ、アサイ)がいた。

 いずれも、地元では、いわゆる有力者であった。

 臣連には、もう一人重要な人物がいた。前身の興道社の創立者の一人脇山甚作大佐である。が、戦後、敗戦を認め、距離を置くようになっていた。

 彼ら役員の内、専務の根来は、付き合いの浅い人間には、いわゆる人格者に見えたようである。高く評価する声もある。が、別の見方もある。 

 昔の本人をよく知っているというお婆さんが、既刊の『百年の水流』を読んだといって、筆者に電話をくれ「アノ人がネー、ハッハッハッ」と笑っていた。どうも、軽んじている風であった。

 筆者が、東山(四章参照)に居った人から聞いた話では、根来は以前、東山の幹部に金鉱採掘の話を持ちかけ、実際に採掘をしたことがある。

 大西洋岸近く、パラナ州との州境近くのアピアイという所でフランス人が廃坑にした鉱山を買い、採掘した。が、失敗「アレは詐欺ではなかったか?」と疑われた。

 総務理事の渡真利成一については、襲撃事件を個人的に画策したのではないか、という憶測もある。一見、やり手という印象を人に与えたためであろう。(つづく)


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