ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(244)
それと四月一日事件の直後、DOPSが臣連本部を捜索した時、ある名簿を発見した。
渡真利が作成したもので第一、二表から成っていた。第一表には八人の名が載っていた。その中に終戦事情伝達趣意書の署名者の古谷重綱らの名があった。
第二表には、認識運動の実務を担当した野村忠三郎ら十五人が記されていた。
この内の古谷と野村が襲われ、野村が死んだのである。暗殺リスタだ━━とDOPSは、その発見に小躍りした。
これが、渡真利画策説を生んだ。
が、渡真利は「単なる敗戦派指導者の名簿」と否定した。
渡真利は戦勝を信じ、その種の情報を頻りと地方支部に流していた。従って、認識運動を警戒、そういう名簿を作っていたとしても不自然さはない。
筆者は、渡真利の画策説について、押岩嵩雄に訊いたことがあるが、
「渡真利は何度か会ったことがあるが、大した人物ではなく、個人的にそんなことの出来るタマではなかった」
と一笑に付した。
吉川あっての渡真利だという意味であろう。
日高、山下もハッキリ否定した。
「渡真利は(決行の折は)影もなかった。アンシエッタで、姿を見たことはあるが、話もしなかった。渡真利黒幕説はウソだ。我々は、自分の意志でやった」
常に渡真利の身近に居た佐藤正信も否定した。
次に臣連の地方支部についても書き残したことを…これも参考程度に…付け加えておく。
地方では、十一章で押岩が話している様に戦勝派と敗戦派の対立が険悪化、血を見ないと収まらないところまで行っていた地域が多かったようだ。この場合の戦勝派は無論臣連が主であった。
しかし襲撃事件に連盟の支部が関係あったという事例は、疑惑はともかく、見当たらない。疑惑があったのは、例えばバストスだが、裏付けがない。
九章で登場したが、支部のあったカンポス・ド・ジョルドン(正確には、その隣村レノポリス)に木村きよみという婦人が居って、次の様な話を聴かせてくれた。
この辺りでは当時、約八十家族が主に人参を作っていた。が、やはり戦勝派と敗戦派に分裂、対立した。
きよみの舅の木村貞治が臣連カンポス・ド・ジョルドン支部の支部長であった。秋田県人で、高等教育を受けていた。
終戦時、舅はきよみの実父の誘いで連盟に加盟した。それもあって、この地域から連盟に入った人たちが多かった。
舅は直ぐ本部の非常勤理事となった。
しかし特に何かをしたというわけではなかった。月に一度サンパウロの本部へ出かけたが、帰ってきて皆に、
「こういう時勢だから、外国に居る我々としては隠忍自重、祖国に恥をかかせぬよう心掛けねばならない」
と話す程度だった。
戦争の勝敗については、
「日本が負けたなら、正式の公報が来る筈だから、それまでは祖国を信じていた方がよい。正式の公報が来ない内に、敗けたと決めつけるのはよくない」
という意見であり、家族も「それは、その通り」と納得していた。
支部長の木村は、そんな具合であった。
ただ当時、同地の敗戦派だった人の話によれば、臣連の強硬派が敗戦派の集まりに乗り込んで、主催者を殴ったということもあったという。
別の支部での話だが、
「連盟に入ったが、格別何もしなかった」
という連盟員の声もある。
そういう状況であったが、殆どの支部が、四月一日事件が発生以後、思ってもみなかった嵐に襲われた。支部役員たちが、一斉に州警察に連行され、壊滅状態になったのである。
カンポス・ド・ジョルドンの場合、きよみの舅が二人の息子と共に地元の警察に引っ張られ、サンパウロへ移送された。着いた先はDOPSであった。
次男は暫くして釈放されたが、舅は長男と共にアンシエッタへ流された。その長男がきよみの婿さんで正治といった。
なお、この地域からは、木村親子を含め計十二人がアンシエッタへ島流しとなっている。他に比較、一地域としては、多数である。
襲撃の組織と動機は?
ところで、連続襲撃事件が臣道連盟の犯行ではなかったとすれば、どんな組織が如何なる動機で、決行したのだろうか?
サンパウロで起きた事件については、すでに詳しく記した。
それ以外については、決行者には会えず、直接話を聴くことはできなかった。(殆どが故人になっていたであろう)
ただ、加藤幸平の夫人が貴重なヒントを与えてくれた。(つづく)