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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(246)

2025年9月12日

 気づいて思い出したのが十一章で紹介した橋本多美代という女性が、

 「ハイセンの人たちは、今でも口にできない様な皇室の悪口を言ったり、日の丸なんか、白い布を女の股に挟んでおけば、簡単にできるとか言ったりしていました。

 そんな人は死んでしまえばよい、と思いました。

 私もトッコーに行きたかったけれど、丁度長男が生まれたばかりで…」

 と怒っていた件である。

 トッコーに行くとは襲撃して殺傷することであり、女性でも、そこまで心を傾斜させていたのである。

 そういえば、十二章でも記した様に、白石母娘が、サンパウロへ向かう襲撃決行者のため、親身の世話・協力をしている。

 この橋本多美代や白石母娘の様な女性が、あるいは多数を占めていたのかもしれないのである。

 筆者の頭の中で固まっていた当時の女性への思い込みが崩れ始めた。

 加藤夫人の回想

 ここで話の間口は広がるが、加藤夫人の回想を通じて、往時を描写するのも一興であろう。少し長くなるが、その方が味わいが出る。

 夫人は一九二八(昭3)年、鹿児島県に生まれた。

 旧姓は村上といった。お爺さんは薩摩藩士であり、西南戦争で西郷隆盛の身辺で闘っていた。城山で西郷が自決をする時「お供をさせてください」と願い出たが、西郷は許してくれなかった。子供が居ることを理由に、生きて帰れと命じられた。

 百姓姿に身を変え、戦場を脱出した。(こんな格好をしても、敵に見つかり、自分の手を調べられれば、すぐ百姓でないことが判ってしまう)とは思ったが…。百姓と士族では、手の荒れ様が違った。

 夫人は一九三五(昭10)年、七つの時、家族に連れられブラジルに渡った。

 父は海軍の下士官だった。

 チエテ移住地へ入植、三区のラジアードに住んだ。

 父は、日本から輸入される本を沢山買ってくれた。楠正成・正行親子の別れの話を覚えている。

 夫人が少女時代、戦争が始まった。

 父の海軍時代の写真を埋めたりして大変だった。

 ポチー区に居った亀岡という一家が心中した。戦争が始まったのがキッカケで色々あって父親が悲観、頭がおかしくなって、そういうことになったらしい。

 戦時中、三区の警察分署に新しい警官が来た。前の警官は善人だったが、今度は質(たち)が悪かった。ミゲーレという名前だった。

 日本人贔屓の一ブラジル人住民が朝、子供を抱いて散歩中、ミゲーレと会った。こんな会話になった。

 ミゲーレ「今日は日本人を二人、留置場に入れてやる」

 住民「日本人は真面目にエンシャーダをひいているだけ。そんなことをしなくてもよいではないか」

 ミゲーレ「お前は日本人の味方か!」

 ミゲーレが怒り出し、拳銃を抜いて撃った。その住人は、子供をそっと下ろしながら倒れた。

 ラジアードの住人は、皆、仕事を休んで喪に服した。

 ミゲーレは逮捕された。

 移住地のブラジル人は、親日家もいたし反日家もいた。

 夫人は十五歳の時、十七歳の姉とブラ拓の製糸工場へ女工として働きに行った。父親が馬に蹴られたり、マレッタに罹ったりして働けなくなったためである。

 その女工の賃金で家族は生活した。

 後に、一家は他の数家族と、州の中央部のサンカルロスへ移転した。まだ戦時中だった。 

 夫人談。

 「戦時中は、日本がどうなるか…で頭が一杯でした。友達といつも、そんなことを話していました。

 日本からのラジオ放送を聴いている人からニュースが伝わってきて…苦戦しているという話もあって、もし負けたら私たちは生きていかれない。お父さんに、

 『どうしたらよいの?』

 って、訊いたら、

 『日本は神の国だから負けることはない』

 というので安心しました。

 お父さんは海軍に居って、アメリカまで行ったことがあって、アノ国に勝つには容易なことではない、とも言っていました。

 戦後、トッコウタイの話を聞いて、友達たちと、

 『ワー、祖国のために、そこまでやる青年が居たのか!』

 と歓声を上げました。当時は皆、同じでした。

 サンカルロスではトマテ作りをしました。が、ひどいモノでした。病気は出るし、折角良いモノを作っても、出荷過剰で加工場回しになるし…。生きて行く甲斐がない生活でした。(つづく)


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