ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(247)
たまたまトマテが良い値で売れ、お金が少し入った時、中外新聞に映画製作の出演者の募集広告が載りました。
日本から映画をつくる人々が来て、霧立のぼるさんら俳優さんが主演して…ということで、その脇役を募集したのです。
それを読んで、今の暮しから抜けだすチャンスだと思い、一人サンパウロに出て応募しました。幸い採用されましたが、映画の方は中止になってしまいました。
それでカベレレイラ(美容師)になりました。家族を呼び寄せました。
二十七歳の時、結婚しました。トーマス・デ・リマ(リベルダーデ区)に友達と住んで居って、ある日、家を出たら、目の前を一人の青年が通りました。真面目そうで、人擦れしていず…すぐ家の中に戻って友達に『今、素敵な人が通ったヨ』って。そしたら友達が『ワー、私も見たかった』って。
それからしばらくして、また会ったんです。それが加藤でした。後で加藤も『ア~俺もお前のこと見たヨ』と言っていました。
私の知り合いが中に入って、先方のお父さんに話して、結婚ということになりました。
加藤は仮釈放で刑務所から出たばかりでした。
事件のことは聞きましたが、殺される人は殺される理由があってそうなったのだから…と気にはなりませんでした。
むしろ、加藤を尊敬していました。英雄でした。
後になって、相手の家族のことを思い、殺すまでしなくても…と思う様になりました」
加藤幸平は、静岡県榛原郡、現在の静波村に一九二二(大11)年に生まれた。
一九二八年神戸をサントス丸で出港、翌年一月サントスに着いた。六歳だった。
加藤とその仲間は、戦時中の養蚕舎・薄荷農場の襲撃もやっていたという。
父・美作(みさく)はノロエステ線ビリグイでかなりの面積の土地を二カ所持って、手広く農業を営んでいた。
長髭を蓄え、磊落な人柄で「加藤財閥をつくる」と夢見ていたという。
幸平は、その三男であった。
話を本筋に戻す。
加藤夫人の話の中で、筆者が特に注目したのが、
「戦後、トッコウタイの話を聞いて、友達たちと、
『ワー、祖国のために、そこまでやる青年が居たのか!』
と歓声を上げました。当時は皆、同じでした」
「加藤は仮釈放で刑務所から出たばかりでした。
事件のことは聞きましたが、殺される人は殺される理由があってそうなったのだから…と気にはなりませんでした。むしろ、加藤を尊敬していました。英雄でした」
という部分である。
当時、襲撃の決行者を、邦人社会の絶対多数を占めていた戦勝派が英雄視していたことは既述した。
これは、前項末尾で記した様に、女性もそうであったろう。
まして娘さんたちまでが、歓声を上げるほどだった…のであれば、若い男たちは「俺も…」という気分になったであろう。
その気分が、連続襲撃事件を引き起こした一面もあった…とも考えられる。
襲撃者が英雄視されたことは、戦時中の養蚕舎・薄荷農場の場合と共通しており、延長でもあった。
彼らは戦争で出征し、敵と戦う兵士の様に観られていたのである。
後世の価値観で、こういうことの善悪を、論じても意味はない。
事実はどうであったか━━を論ずるべきである。
歴史研究は善悪の域に踏み込むべきではない。事実を追究することにのみ限定すべきである。(つづく)