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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(248)

2025年9月16日

十五章

大騒乱 (Ⅴ)

 十一章以降、延々と綴ってきたこの『大騒乱』の内、連続襲撃事件に関する話はボツボツ締めくくらねばならない。

 ただし大騒乱そのものは、もう少し続く。別の事件が頻発していたのである。それは次章で記すことになる。

 知事アデマールの登場

 連続襲撃事件で囚われの身となっていた人々に対する風向きが、ある時期から変わり始めていた。

 一九四七年の一月、新選挙法による公選で、サンパウロ州知事にアデマール・デ・バーロスが当選して以降である。

 この人は普通「アデマール」と呼ばれ、邦人社会、特に戦勝派には人気があった。知事選の折、戦勝派が応援したため、彼らに対する理解があったという。

 アデマールは州警察、特にDOPSが惹き起した余りにも大袈裟な捕り物劇に対しては、批判的な見方をしていた。

 ツッパンの臣道連盟支部の役員でアンシエッタへ島流しされていた山内健次郎が分厚い手記を残しているが、それに概略が記されている。その中に先ず、

 「アデマールは、三月に就任すると、大統領に国外追放問題の貰い下げを働きかけ、これをサンパウロ州政府の問題として処理することにした」

 という主旨の記述がある。

 これと並行して、戦勝派有志による各地の拘置所、アンシエッタ島に居る同志の釈放運動が始まった。(警察に留置中の者は、この頃は殆ど拘置所に移されていた) 

 弁護士を使って、サンパウロ中央裁判所に要旨次のような訴えを起こしたのである。

 「サンパウロや地方の拘置所、アンシエッタ島には、多数の人間がまだ拘禁されている。彼らは起訴もされず、裁判も受けていない。しかるに拘禁が長期に続いているのは、不法である」

 この訴えの結果、四月十一日、裁判所で審理が行なわれ、基本的には原告側の主張を認める判決が下った。ただし、細部には種々条件がついた。

 これは、釈放運動をしている有志たちから山内へ、面会の折に報告された。

 因みに山内の手記は、主として面会人の話に頼って作成している。

 内容の正確度には、疑問が湧く点もあるが、凡その流れは掴める。以下は、その一部である。

 六月。

 釈放運動の有志と弁護士が、州知事に面会。その要請により知事はDOPSに問題解決を指示。

 九月。

 リオの大審院(最高裁判所)が、拘置者の一部は釈放、と判決。

 サンパウロの拘置所から十四人、アンシエッタから七十四人が出所。

 その出所者の中には、吉川順治が含まれていた。

 地方でも釈放が始まった。

 一九四八年、残りの殆どの釈放が許可され、年末までに出所した。(ごく一部は残された)

 この釈放という言葉であるが、法的にどういう扱いであったのか…については資料を欠く。

 無罪放免ということではなかった筈だ。

 というのは、この時、日高徳一、山下博美らのグループ…つまりサンパウロで起きた四月一日と六月二日の両事件の襲撃決行者たち十人も出所しているからである。

 彼らの場合は、犯行が明確になっており、仮釈放であった筈だ。数年後、裁判が行われている。

 彼ら以外の釈放者も、検察は起訴している。

 一方、臣道連盟は対外的には解散ということになっていた。他の戦勝派団体も、あらかた消滅していた。

 その点ではDOPSは一応目的を達したことになる。米公館も、そうであったろう。

 残るは裁判…ということになった。

 裁判

 その裁判は、なかなか開かれなかった。開かれたのは一九五〇年である。

 何故、そんなに時間がかかったのだろうか。

 日本人の皇室に対する思想の特殊性が事件の根底にあり、それをどう判定するかが難しく、裁判官の引き受け手が居なかった…という説もある。が、確認は取れていない。

 それはともかく、四月一日、六月二日の両事件の決行者の裁判から触れると。━━

 仮釈後、日高や山下はツッパンの自宅に戻っていた。以後、時々、サンパウロ中央裁判所から呼び出しがあり、出聖した。やがて裁判ということで、また出聖して拘置所に入った。

 彼らのグループ十人の他の八人の内七人も同じであった。が、北村新平のみが行方を晦ました。

 拘置所には、押岩嵩雄がまだ居た。以下は(十三章のそれに次ぐ)彼の続・回顧談といったところである。

 「拘置所で我々は、ほかの囚人とは別の処に入れられていた。連中は人殺しとか泥棒だったが、我々と行き会うと、道を開け、敬意を表してくれた。(テロリスタなど政治犯は一目置かれていた)(つづく)


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