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【コラム】織田哲郎さま、登場!(18)奥原マリオ純

2025年10月2日

サンパウロ・ブルーノートで相川七瀬公演中に紹介された織田哲郎
サンパウロ・ブルーノートで相川七瀬公演中に紹介された織田哲郎

「オダ様!」。9月5日、サンパウロのブルーノートで開かれた相川七瀬の公演中、観客の一人が放ったその一声がなければ、日本が誇るヒットメーカーの来伯は見過ごされていたかもしれない。織田哲郎――没後の筒美京平、現役の小室哲哉に次ぐ、日本音楽界における〝第三の巨匠〟である。

1990年代、彼の名はJ-POPの黄金時代を象徴した。中山美穂とWANDSによる「世界中の誰よりきっと」、ZARDの坂井泉水が歌った「揺れる想い」など、数々の名曲にその署名が刻まれている。まさに現在の「J-POP」というジャンルの輪郭を形作った存在である。

さらに、相川七瀬を発掘し、大ヒット曲「夢見る少女じゃいられない」を手がけたのも織田だった。以来30年に及ぶパートナーシップは、日本国内のツアーでいまも続き、そして今回、ブラジルの地にも息づいた。

67歳を迎えた織田は、ブルーノートの舞台においてもその「クール」な佇まいを崩さず、50代に入ってなおロックの熱を放つ相川と並び立った。同行したベーシストのComp(相川の30周年ツアーメンバー)、さらにブラジルからはキーボードのセルジオ・ゴリヴェク、そしてハードロックバンドSPEKTRAに所属し、Mr. Bigのフェアウェルツアーにも帯同したドラマー、エドゥ・コミナートが加わり、国境を越えた編成が実現した。

紹介を受けた際、織田は「オブリガード」とだけ口にし、観客の拍手に応えた。その後は終始、柄シャツに黒のパンツ、サングラスという〝クール〟な装いのままギターを奏で続けた。ソロは8小節前後にとどめ、歌の流れを重視するJ-POPの作法を守り抜いたその姿は、最後まで一貫していた。

ブラジルで初めて織田の楽曲が響いたのは1988年、近藤真彦(愛称「マッチ」)がサンパウロ・アニェンビに招聘されたときである。『イマージェンス・ド・ジャポン』の企画で2日間の公演を行い、筒美京平作曲の「ギンギラギンにさりげなく」(1981年)と並んで、織田が手がけた「Baby Rose」(1987年)も披露された。したがって、今回の本人来伯は、日伯音楽交流史において記念すべき一幕であったといえよう。

さらに遡れば、1966年には「上を向いて歩こう(Sukiyaki)」で知られる中村八大が、リオ・デ・ジャネイロのマラカナジーニョで開催された国際歌曲祭に参加し、江利チエミが歌った「私だけのあなた」で第9位に入賞している。

今回、惜しむらくは、織田哲郎の音楽観をJ-POP愛好家に伝える講演や、彼の業績にふさわしいメディアでのインタビューが用意されなかったことだ。しかし、あの観客の呼び声のおかげで、この〝日本音楽界の至宝〟の存在は確かにブラジルで刻まれることとなった。


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