ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(270)
前衛隊の首魁山岸宏伯なる中年男は、写真を見ると、縁なしの色眼鏡をかけ薄笑いを浮かべている。
この男、五・一五事件の「問答無用、撃て!」で有名な山岸宏中尉である、という噂があった。
当人が「自分は、その山岸中尉だ」と名乗ったのではなく、配下が、そういう噂を流して歩いた。
ただし本物は、海軍中尉で陸軍憲兵中尉ではない。
前章までに何度も登場した日高徳一は、アンシエッタから仮釈放され自宅に戻っていた時、この山岸の訪問を受けた。そのとき彼は、
「時期が来たら、裃をつけて、もう一度来ます」
と、暗示的なセリフを口にした。裃が軍服を意味することは直ぐ判った。
日高は父親から、
「あの男には気をつけろ」
と注意されていたという。
前衛隊の逮捕から半世紀以上経った二〇一〇年、サンパウロ人文科学研究所に、一資料が寄贈された。前衛隊の隊員だった多田幸一(故人)という人の手記で『大日本国民前衛隊 思想戦回顧録』と題名がついている。
寄贈した遺族の話によれば、多田は一九〇九年、兵庫県に生まれ、十八才の時、家族と共に移住した。
終戦時、奥ソロカバナ線オウリーニョスの近くの町で洋服仕立て業を営んでいた。元々は農業移民であったが、喘息の持病があり転業した。
以下は、その手記による。━━
多田は終戦後、臣道連盟に属した。が、臣連が解散声明を出し、指導者は分裂、堕落して行く中、拠り所を失い、憂鬱な日々を送っていた。心は悶々と曇りがちで、寂寥感に眠れぬ夜もあった。
一九五〇年…ということは、多田は四十歳を越していたことになるが、仲間の佐藤某から、マリリアに居る山岸宏伯のことを聞く。
佐藤が山岸を訪問した時、山岸はいきなり銃弾の箱を机の上に置き、
「武器を持っているか?」
と訊ね、
「持っています」
と答えると、射撃の練習をしておくよう勧めた。さらに時局を説き、
「トッコウタイに参加する勇気があるか?」
と問い質した。
多田は佐藤から、この話を聞いてマリリアへ行き山岸と会った。
そしてその人物に心酔、彼らの計画に参加することにした。
すると、勇気が勃々と湧いてきて、その快感で青年時代に還った気分となり、来る日も来る日も楽しかった。
同志も出来た。以後、その同志と共に、前衛隊の幹部と会ったり、敗祈派(敗戦祈願派)の調査に出かけたり、射撃の練習をしたりした。
しかるべき敵を襲撃するという方針も固まった。
しかし十一月下旬、突如、マリリアで山岸以下が逮捕された。
以後、前衛隊に関する記事が、毎日の様に新聞に掲載された。
多田たちは呆然としていたが、その内、警察に拘引され、マリリアへ送られた。
同時期、他地方でも、前衛隊の隊員の逮捕が続いた。
なお、多田はマリリアの警察で、サンパウロのDOPSから出張してきた刑事に、
「何故、人を殺すのか、勝った負けたで殺すのか?」
と聞かれ、
「違う。勝った負けたで殺すのではない。
天皇並びに国家に対する反逆者を殺すのだ」
と答えている。
その後、多田たちは(マリリアの近くの)ガルサにある刑務所に送られた。刑務所といっても、この場合、アンシエッタ島と同様、拘置所代わりに使用されていた。近代的で暮らしやすかった。
手記は、思想戦を戦い抜く覚悟を記して終わっている。
この場合の思想戦とは「日本の勝利を信じ、敗戦を認めさせようとする勢力と戦う」という意味である。(つづく)