ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(276)
二十五、六家族(百五十~二百人)という数であった。彼らは共同生活をしながら、開墾をし、蔬菜を育てた。
加藤とキヨは、サンパウロの本宅から、時々農園へ来ていた。
入園者は皆、朝香宮、妃殿下と信じ、恭しく接した。二人も鷹揚にそれに応えた。
キヨは妃殿下然と振舞い、こんなことを話したりした。
「私は仙台の伊達家の出である。伊達家は由来美人の系統で知られている。私の美貌は、これを物語る以外の何物でもない」
「明治天皇は、なかなかの発展家であった。私などはその因果で、ブラジルでこんな生活をするハメになった」
ただし彼女は、美貌でもなんでもなかった。
皇族が営むにしては、農園の実態は酷いものであった。就労者に報酬は出ず、食事はお粗末極まりなかった。外出は許されず、生活に潤いはなく、ドンゾコ生活で農奴と変らなかった。
邦字新聞すらとっていなかった。
収穫物は、市場に持って行き販売したが、僅かな売り上げは、キヨが取り上げ持ち去った。
加藤は、運転手つきのキャデラックに乗って、夜は飲み屋通いをしていた。
時々、農園にやってきたが、農業にはズブの素人なのに、営農方針に口を出すので、仕事は混乱、支配人の島崎秀作を困らせた。
島崎は、以前は組合の蔬菜部主任をつとめていた。が、加藤を朝香宮と信じ、この農園も国家的事業と思って家族を伴って入った。
が、加藤の宮様ぶりは怪しげで、仕事にも国家的事業らしいところは何もなかった。
島崎は、次第に疑いを強めていた。
偽宮騒動 ➂
そうした中、既述の一九五三年八月の暴行事件が起こっている。
それを、もう少し詳しく記すと。━━
被害者の有家忠らは、支配人の島崎の家に逃げ込んだ。が、加害者の漆畑たちが翌日おしかけ、島崎との間で、渡せ渡さぬ…で殺気だった空気になった。押しかけた一人が空砲を撃った。
このとき漆畑が、今回のリンチが加藤の指令である、と口をすべらした。
その加藤は、他の入植者の島崎の家への出入りを禁止、島崎を孤立させた。が、一人訪れる者があり、これもリンチに遭った。
以後、加藤が一旦謝罪するという様なこともあったが、ギクシャクした空気は収まらなかった。
十月に入って、被害者たちが、
「いずれ加藤の首をとってやる」
と捨てゼリフを残して農園を去った。島崎一家も一緒だった。
なお、その直前、パウリスタ新聞の記者が島崎を訪れて取材していた。
その記事が、彼らが農園を出た後、紙面に載った。
記事を読んだ加藤が怒り狂って、島崎の住んでいた家を焼き払わせる(!)という様なことも起きていた。
付記しておけば、有家忠が農園に入るまでの経緯は、こうであった。
一九五二年、知合いから誘われてモジの郊外で開かれたある講演会に行き聴講した。(つづく)









