「サンパウロ市近郊に日本人秘密軍事組織」=大戦期、米諜報機関がブラジル脅迫?!=勝ち組や邦字紙動向まで報告《記者コラム》
「日本人秘密軍事組織は30分以内にサンパウロ市制圧する能力を持つ」
国会図書館サイト「ブラジル移民の100年」には1942年3月の戦中文書が掲載されている。《米陸軍省参謀部情報部長の報告。信頼できる情報として、サンパウロ市近郊に2万5千人以上の日本人の秘密軍事組織が存在する》(1)という内容だ。
いわく《信頼すべき情報源によると、日本人は、日本人将校が管理する完全な軍事組織をブラジルに置いている。その将校には、この組織の指揮という特定の目的で日本からブラジルに派遣された何人かの将官も含まれている。サンパウロ市近郊にあるこの組織の一部は、2万5000人を超える要員を擁する。当該組織のこの支部は、30分以内にサンパウロ市を制圧する能力を持っている。戦略上、内陸部に同様な日本人の組織が置かれているという兆候があり、それらの主たる任務は、多くの拠点への援軍の到着を阻止することになるであろう。というのも、すでに日本人が、主要な鉄道を支配下に置く戦略上の拠点の財産的管理権を購入し又は賃借することにより、そこを通って上水道と送電線がいずれもサントス港防衛のために建設されたサン・ヴィセンテのイタイプとグアラジャのモンドュバのブラジルの要塞に通じている土地を支配するいくつかの要塞を取得しているからである。サン・ミゲル近くの南米最大の爆発物工場、戦車と装甲車を製造しているサン・カエタノのゼネラル・モーターズの工場、アルト・ダ・セラのライト・アンド・パワー会社の貯水池とダムは、日本人の地主に囲まれてしまっており、これらの施設は、日本人の権力者から命令が下ったときには爆破されるといわれている》(2)
この噴飯物の文書は、れっきとした1942年3月12日付・アメリカ陸軍省(War Department)軍事情報部(G-2)による極秘メモだ。
恐怖を煽る米陸軍諜報機関の機密文書
現実とは異なる、全くありえない内容の文書だ。だが、この翌月の4月から実際に、サンパウロ州ではスパイ嫌疑で警察に勾留される邦人が目立って増えた。
勾留された移民同胞に差し入れをするために、6月頃から渡辺マルガリーダ女史を委員長とするサンパウロ・カトリック日本人救済会が立ち上がった。その組織が戦後に救済会と名前を変えて老人ホーム「憩の園」を創立して現在に至る。
「サンパウロ近郊にあるこの組織の一部は、2万5000人を超える要員を擁する」と言うのは、モジのコクエイラやスザノの福博村などの日系集団地を軍事組織と見ていた可能性を示す。
吉川順治退役陸軍中佐、脇山甚作退役陸軍大佐など実際に「元軍人将官」が農業移民としてブラジルに来ていたのは間違いない。それが戦後の勝ち組組織に関係したことも否定できないが、軍事教練などはありえないことだった。
戦中戦後にかけて、子供に高等教育を受けさせるために、洗濯屋を生業として奥地からサンパウロ市に出てきた日本人が増えた。ノロエステ地方などに多かった風土病で体を痛めた移民が、同仁会の高岡専太郎医師らの勧めに従って健康地を求めてサンパウロ市近郊で野菜や養鶏農家を始めてもいた。それを軍事組織化の動きであるかのように、米国諜報機関は誤った解釈をブラジル政府に伝えて、わざと恐怖を煽っていたとしか思えない。
まして「日本人秘密軍事組織が30分以内にサンパウロ市を制圧する能力がある」と言うのは、常軌を逸している。
ブラジル政府に恐怖を植え付ける米国諜報機関
「アメリカ諜報機関の文書から、ブラジルにおける日本移民迫害が関連づけられる」と言うのは恐ろしい現実だ。
戦中戦後の歴史を振り返ってみると、米陸軍省情報部は当時のバルガス独裁政権に対して、同文書にあるような「日本移民は危険」と恐怖感を誇張する情報を流し、それをブラジル政府が本当だと信じていた可能性が伺える。
米国はバルガス政権に対して、もっと欧州戦線に出兵するなど連合国側に積極的に加担、同時に国内の枢軸移民をもっと抑圧迫害すべきとの圧力をかけ、誘導すべく情報戦を繰り広げていた。
同文書の前後の流れも辿ると、よりこの文書の歴史的な位置付けが明らかになる。
11月11日付本紙《地政学的な〝経済戦争〟の原型=大戦時の「特定封鎖国民リスト」=ルーズベルトとトランプの共通点》(3)に書いた通り、日本軍から先制攻撃があることを予見するかのように、南米における日本移民敵視政策として1941年7月17日に米国務省は「特定封鎖国民リスト(The Proclaimed List of Certain Blocked Nationals)」初版を発表。1930年代後半から大日本帝国の海外進出や紛争に対抗して行われた石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止による米英蘭中諸国による経済的な対日包囲網「ABCD包囲網」の延長とも言える政策だ。
経済的に囲い込んで日本側から開戦するように仕掛けるのと同時に、開戦したあとの危険要素を洗い出し、ブラジル内の日本移民の軍事的脅威を疑い、米国は監視と警戒を強めていたことを示す。
実際に41年12月8日に日本軍は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入。その十日後の12月18日には、ルーズベルト大統領の机の上には早速、ブラジルのドイツ系移民を含めてバルガス政府内部の高官、治安機関、軍部の動向、国内のナチ支持組織の活動などの反政府的な動きに関する報告書が上げられた(4)。
ブラジルを枢軸国側にしないために、米国が主導して翌月1942年1月15日からリオで汎米外相会議が開催され、アルゼンチンを除く南米10カ国が枢軸国への経済断行を決議。ブラジル政府も1月29日に枢軸国に国交断絶を宣言した。だが、この段階では宣戦布告はしておらず、日本は「敵国」ではなかった。そんなブラジルの恐怖を煽って参戦させるべく背中を押すために、この同文書が3月12日に出されたようだ。
1942年2月、米国本土では日系人の強制収容が開始された。同じく1月にはペルーからの日本移民や日系人指導者の米国強制送還が開始された。合計1800〜2200が米国本土の収容所へ送られ、ペルーはラテンアメリカで唯一の国外収容(米本土)を本格的に実施した。
サントス強制立退に繋がる流れ
同時期、米国政府からブラジルにも「日系人を監視せよ」という圧力がかかっていた。ブラジルは当時まだ半ば中立的だったため、米国は同文書で「日系人が反乱を起こす可能性」を理由に親米化・参戦を促したと考えられる。
実際に1942年2月、戦前からの日本人街、サンパウロ市のコンデ・デ・サルゼダス街界隈には治安上の理由から第1次日本移民立退令が発令された。
ブラジルが連合国側についたことに怒ったナチス・ドイツは1942年2月頃から、大西洋で潜水艦によるブラジルから米国に輸送する商船への攻撃を始めた。その賠償を名目にブラジル政府は、米国の「特定封鎖国民リスト」に基づいてブラジル内の敵性国資産の資産凍結令を発令し、枢軸国移民の資産が差し押されられ、会社等に査察官が任命されて政府が管理するようになった。
3月頃から日本人社会の指導者の勾留が始まり、7月には日本国外交官や駐在員、ジャーナリストらが大挙して交換船で日本帰国。8月にはナタル沖でブラジル船舶が5隻も沈められ、ベレンやフォルタレーザなどで日本移民商店焼き討ちなどが始まり、パラー州政府は監視を兼ねて、トメアスー移住地に日本移民を隔離収容するという流れになる。
ドイツ潜水艦21隻とイタリア潜水艦2隻はブラジル商船36隻を沈没させ、1074人の死者を出した。その中で42年8月22日にブラジル政府は対独伊宣戦布告をし、欧州戦線にブラジル遠征軍(FAB)派遣を決定し、米国が誘導する方向に完全に乗った。9月にはサンパウロ市のコンデ街に対して二度目の立退命令が出され、日本人街は完全に消滅した。
同年、米国はブラジルに経済的インセンティブを与えると同時に外交的圧力をかけ、北東伯沿岸に海軍航空基地を設置した。中でも最も重要な基地は北大河州の州都ナタール近郊、パルナミリン市に位置し、ここは「(アフリカに飛ぶための)勝利のトランポリン」と呼ばれた。サイト(5)にあるように、北東伯フォルタレーザ基地も米空軍の航空支援拠点として、1942年から盛んに運用され、アフリカ周りの米軍機が飛び交った。
そして1943年7月、戦争中の日本移民迫害のピークとなった日本移民6500人を24時間以内にサントスから強制立退させる事件が起きる。
この流れからすれば、米国がブラジルに連合国側参戦を促すために、現実以上に日本移民の脅威を誇張したことで、移民迫害が熾烈化したことは否めない。
世界史の一部としての日本移民史
CIA史料公開サイト(6)には、戦後のロンドリーナの勝ち組に関する報告書もあった。CIA文書「TOKOTAI, JAPANESE TERRORIST ORGANIZATION IN BRAZIL」だ。いわく《Tokotai(特行隊、勝ち組組織の強硬派)は日本は大戦で負けていないとか、マッカーサー元帥は日本で捕虜になっているというプロパガンダを広めている》などと書かれ、日本が連合軍に統治されていた1948年11月の時点でも、まだ監視をしていたことが分かる。《警察によれば、特行隊はブラジル内に約300人の武装メンバーを有する》などと、冒頭文書と同様に実態からはかけ離れた恐怖を煽る内容が報告されている。
このCIA報告では、彼らを「宗教的狂信を帯びた政治的テロ集団」と位置づけ、勝ち組の中心的指導者は反米・反連合国の思想を掲げていたと報告。ブラジル当局は実際にこれを治安上の脅威と見なし、1946〜47年にかけて大規模な勝ち組幹部取締りを行い、1千人前後が逮捕され、うち約170人はアンシェタ監獄島送りになった。政治警察(DOPS)等での取り調べには、アメリカ領事が立ち会ったとの体験談がいくつも見られる。
一方、1948年に作成された別のCIA報告書では、サンパウロ市の新聞の政治傾向や資金源を分析し、その中に「パウリスタ新聞」を含む外国語紙も並列されている。これは、当時の日本移民社会がブラジル内で独自の情報圏を形成し、移民コミュニティの動向が政治的に無視できない存在だったことを示している。CIAが日本語新聞の内容等を把握しようとしたのは、日本語伯が世論形成に果たす役割の大きさを認識していたからだ。
報告書では、パウリスタ新聞を日本人社会の代表的メディアの一つとして扱い、その政治的中立性、経営基盤、世論への影響を外国語紙の一環として記録した。だが当時、もっと監視すべき対象であるはずの勝ち組寄りの言論機関、伯剌西爾時報、昭和新聞もあったにも関わらず、一番認識派寄りのパウリスタ新聞が報告書に出てきたの不思議だ。むしろそこにインフォルマンチがいて日系社会内部の情報の発信源になっていた可能性をうかがわせる。
米国へ情報を流したインフォルマンチは、「DOPSなどブラジル官憲と関係を持っていた2世バイリンガルや通訳」「キリスト教関係者」「ブラジル公教育関係者」「地元ブラジル人(行政・警察関係)」「他系移民の目撃情報提供者」が主要候補だと言われる。日系社会には「被差別部落出身者」など村八分的な存在が昔からおり、その可能性も否定できない。自己保身(警察との取引、情報提供で恩赦や保護を得る試み)など理由はいくらでも考えられる。
ここでスパイ探しをするつもりはない。だが米国諜報機関は、今も監視している可能性がある。ブラジル日本移民史は、日本の歴史教科書に記述されないように「日本史の一部」としては認めてもらえない。だが、CIA文書に出てくるのであれば「世界史の一部」であることは間違いない。(深)
(1)www.ndl.go.jp/brasil/data/R/G006/G006-NARA0001r.html
(2)https://www.ndl.go.jp/brasil/text/t084.html
(3)brasilnippou.com/ja/articles/251111-column
(4)brasilnippou.com/ja/articles/251118-column
(5)tokdehistoria.com.br/2022/09/27/1944-the-tragedy-of-the-b-24-in-fortaleza-brazil/









