ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(297)
だが、組合という組織体が大なるものになり、共同販売、共同購買、相互金融が確立されることにより、大資本に対抗して取引を有利にする力が出てくる。
組合は経済行為を行うだけでなく、組合員の生活を保護し、その水準を引き上げるため、役立たねばならない。
保健、教育、娯楽、衣食住、生活の合理化、この様なことは協同の力ですべてを解決する。
学校がない場合は我々の手で建てなければならない。できれば大学までも…。
保健は、過激な労働を強いられる農業者には、極めて重要である。組合病院を建てるところまで行かねばならない。
娯楽も大切であり、部落(地域単位の組合員組織)ごとに協同の力でシネマ館もつくる」
以上、下元は、極めて重要なことを言っている。移民の憧れであったファゼンデイロつまり大農場主への可能性をハッキリ否定している点である。
その代わり「産組によって、自分たち中小農が支配し、かつ大資本に対抗し得る力を持った、一個の新社会をつくろう」という目標を掲げていた。
コチアは、規模が大きかったため「組合員の中には、大きな人が大勢居るのだろう」と、世間はごく自然に想像していた。が、実はその頃は大農など居なかった。役員でも、自分の農場に帰れば、中小農だった。
下元は組合員の大農化には、むしろ冷淡であった。もっとも産組というのは本来、中小農のために考案された組織であり、大農になればなるほど、その必要性は薄れて行くわけだから、それで当然だったかもしれない。
コチアは増資積立金だけでなく、特定の地域・生産物用の施設を作るような場合も、それを利用する組合員から、別途に特別積立金を徴収した。
そういう具合に、儲けをザックリ削られるため、組合員が十分な投資ができない、大農になれないと批判された。
対して下元は、こう反論している。
「組合員は、個々の営農においては中小農でも、一人一人が組合のオーナーである。組合が大きくなれば、それは、皆の財産が増えるということではないか」
さらに産組を、資本主義と社会主義の混血児と定義し、共存共栄の社会を目指していた。(共産主義とコペラチヴィズモ=組合主義=も差は紙一重である、と表現したこともある)
そういうイデオロギーの下に、一つの新社会を建設しようとしていたのである。
コチアはこの頃組合員の家族も含めれば、四万人という規模になっていた。ほかに組合の職員家族が数千人いた。
これがコチアという新社会の構成員と見做されていた。
その新社会は、閉鎖的なものではなかった。地域々々で、組合員の農場や住宅は、一般の非日系の住民のそれと混在していた。組合員はその国籍を数えれば、すでに三十余カ国になっていた。全体比で非日系人は三〇㌫を越していた。
二人の死
一九五六年の四月、理事長のフェラースが病死した。四十七歳の誕生日を迎える直前であった。
若き記者時代、フト取材に訪れた異人種たちの産組に、自分の人生を捧げることになった縁(えにし)を、どう思っていたろうか…。
「私は一つの制度、主義としての産業組合を発見できなかったら、多分、共産主義者になっていたろう」
と語ったことがある。
下元の新社会建設と共通する思想の持ち主であったわけだ。
ただ「渉外(政治)工作のために組合の金を使い、それが荒っぽかった」という批判はあった。
もう一人のセザールという非日系の理事とともに「金をフェラース(減らす)、何もセザール(しない)」と揶揄された。
しかし個人生活は質素だった。何度も、他所から好条件で転職の誘いを受けた。が、母親の、
「神からの授かり物を捨ててはいけない」
の一言で、思いとどまった。
彼はよく組合員や職員を自宅に招き、食事をした。
従業員のフットボールの試合に参加、相手チームのメンバーと殴る蹴るの乱闘をした。
一方、ジョッキー・クラブで、上流階級の人々とグラスを傾けた。
活動的で、よく働いたが、吸い過ぎ、飲み過ぎ、食べ過ぎた。
彼の夢は六十歳で引退し、産組と日本移民に関する本を書くことだった。
その死の直後、コチアの本部では、緊急理事会が開かれた。後任には下元健吉が推された。が、当人が拒否、代わりに別人の名を上げた。
それは、二世の理事井上ゼルヴァジオ忠志で、まだ三十代の若さだった。
戦時中、監事になった彼は、その後、理事になっていた。そして今度は、理事長に大抜擢されたのである。ただし実権は専務の下元が握った。
その翌一九五七年が、組合創立三十周年に当たった。これを機にコチアは農業展覧会を開催した。
先に買収したジャグァレーの土地を会場に、農産物だけでなく、小さな日本庭園、組合員の家族の手による生け花、写真、絵画、手芸品まで展示した。コチアがめざす文化的な農村生活を表現しようとしていた。(つづく)









