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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(314)

2026年1月7日


イヲの返事は、一語一語すべてを理解できなかったが「さがみのくに…」「とのさまが、おくにがえになって…」とか「ちちと、ひごのくにへ…」「いくさがあって…それをみた」といった言葉が耳に残った。

相模の国とは神奈川県、殿様がお国替えというのは、明治初期の廃藩置県のことであろう。

「私は、神奈川に生まれた。殿様が領国を失ったため、家臣であった父は家族を連れ、熊本に移った。そこで西南戦争が起き、私はそれを見た」という意味であった。

ガラガラ声で話す明るく元気で気丈そうな媼だった。

質問を変えて、何げなく皇太子ご夫妻が来られることを、どう思うか、と訊いた時である。

突如、その幼児のように小さく縮まった身体から「ゴォー」という音が発した。

ビックリしたが、イヲが号泣したことが判った。声はすぐ止み、イヲはこう言った。

「天子様は、移民のことを忘れては居られなかった…」

それを見たイヲの娘さん…といっても、この人もお婆さんと呼ぶべき年輩であったが、

「母が泣く姿を初めて見た」

と、驚いていた。

ということは、かつての苦しく長い歳月の間、決して涙を見せなかったということである。夫の自殺時も…。

それが、皇太子ご夫妻のブラジル訪問の報に感泣したのである。

五月二十五日、サンパウロ市内のパカエンブー競技場で、皇太子ご夫妻を歓迎する式典が催された。

八万の日系人がスタンドを埋め尽くした。紺碧の空の下、その人々が身につけた色とりどりの晴れの衣装が、超巨大な花園をつくりあげていた。

この国に於ける日系社会史上、これだけの多人数が一カ所に集まったのは初めてであった。

正面に仮設された木造の御立ち台に、ご夫妻が姿を現わした。

余談になるが、その御立ち台を作った大工さんは、遠くから見ていて冷や汗を流した、という。

ブラジル側の関係者が多数、ご夫妻の後から、ここに上がり過ぎ、床が落ちる危険があった…のだ。

その周辺は、カメラマンや記者が押し合いへしあっていた。筆者も、そこに居ったが、直ぐ側に、もみくちゃにされながら式典の司会を、マイクを右手にメモを左手に、見事なポルトガル語で進めている人がいた。コチアのゼルヴァジオだった。

式典が始まり、日伯両国歌吹奏の後、ご夫妻の前に進み出たのが宮坂国人だった。

宮坂はこの二年前、中尾熊喜の後を継いで文協の会長に就任していた。七十五歳であった。

この時は歓迎委員会の委員長として歓迎の辞を読み上げようとしていた。

読み上げ始めた。が、その声が途切れた。嗚咽が洩れ、姿勢が大きく崩れた。感極まったのだ。

宮坂も隈部イヲと同じ思いであったのだろう。

式典が終わり、ご夫妻がオープンカーで会場の出口に向かった。ご夫妻は立って、スタンドの人々に手を振っていた。

その時、近くから、誰かが押す一台の車椅子が飛び出し、オープンカーを追い始めた。

腰掛けているのは古谷重綱だった。

十二章で登場したが、一九四六年四月一日、襲撃された元アルゼンチン公使である。

車椅子の古谷は、両手を合掌させてご夫妻を拝んでいた。

妃殿下が気づき、殿下の方に手を差し伸べ、何か言い注意を引こうとした。が、殿下は気付かず、スタンドに向かって手を振っていた。

妃殿下は気づかわしそうに古谷を見返していた。古谷はそれが判ったのであろう。合掌しながら感謝する様に何度も頭(こうべ)を下げていた。顔中が涙で濡れていた。

古谷は、一カ月後に他界している。九十一歳であった。

ご夫妻がサンパウロを去る日、空港入口付近では、多くの人々が見送ろうとしていた。

空港に着き、中へ入ろうとしたご夫妻は、足を止め、その人々の方へ数歩進み、笑顔で手を振った。瞬間、十数メートル先の所にいた娘たちが、叫び声を上げた。感動の余りの悲鳴に似た泣き声だった。

筆者は、その頃年齢は二十代半ばであったが、感涙というものを、生まれて始めて、右の人々に見た。その後も見たことはない。(つづく)


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