ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(318)
何故、そうしたのだろうか。
四章で触れたが、小説家の角田房子が、後に【宮坂国人伝】を執筆しており、それに詳しく事情が記されている。
なお角田は、前章で登場した宮坂の女婿のいとこであった。ということは、山県勇三郎の姪ということでもある。
角田は目黒に宮坂を時々訪れていた。が、その顔から急速に精気が失われて行くのに驚いた──という。
彼女には、宮坂が日本の空気に馴染めないでいる様に観えた。
その頃の日本は、好景気の真っ盛りで〝昭和元禄〟を謳歌していた。宮坂は、それに好感を持っていなかった。特に若者が軽佻浮薄に流れている──と失望していた。
「日本人はこんなに贅沢ばかり追いかけて、これから先どうなるのかねえ」
「テレビは贅沢品の広告ばかりだし、歌といえば、意気地のない男が女を恋しい恋しいと、涙を流すようなものばかりだ。青年の気概を歌ったものなど聴いたことがない。
海外移住の希望者はめっきり減ったそうだが、もう〝冒険〟とか〝海外雄飛〟などという言葉には興奮しなくなったのかねえ」
こんなことを口にしていたが、淋しそうだったという。
宮坂は青年期「海外雄飛こそ日本人の進むべき道。拓殖事業は国づくりに似ている。最も男らしい仕事」と血を沸かせ、以後フィリピン、ペルー、ブラジルで、その道一筋に生きた。(銀行の経営も移民のためであり、拓殖事業の延長であった)
そういう人間が、四十一年ぶりに、落ち着いてユックリ観察すると、日本人…特に若者の姿は、情けなかったのであろう。
外出もしなくなり、炬燵に寄りかかって、つまらなそうにテレビを見ているその姿は、日増しに老いの影を濃くして行った。
サンパウロから訪れた女婿の家族(宮坂の娘、孫)や知人が、その衰え様に驚き、
「このままでは…なんとかしなければ…」
と、ブラジルに戻ることを勧めた。
が、当人は迷っていた。夫人が老齢で、異国での生活経験も無かったからである。が、夫人の方が乗り気になり、結局、戻った。
サンパウロの空港に着いた時、宮坂の衰えは一段と進んでおり、出迎えた人々との会話も思うようにならなかった。
その後は、家族や友人、知人、南銀の旧部下に暖かく庇護され、穏やかな日々を過ごしたという。
筆者が会ったのは、そうした時期のことである。無論、筆者の名前も忘れていたであろう。ただ、見覚えのある人間に会うと、嬉しくなって、誰にでも、ああいう反応をしたのではあるまいか…。そんな感じだった。
七七年、八十七歳で他界。
この人の日系社会史上の位置付けは、どう記されるべきであろうか。
戦前は、ブラ拓の最高幹部として、移住地三カ所の建設に当たった。
排日法により新たな建設が出来なくなると、パラグアイにその地を求めた。
南銀を創立した。戦時中、経営権を手放したが、戦後、買い戻し再建した。
富士銀行との提携に成功した。これが範となり、コロニアと日本の企業の合弁事業が、幾つか生まれている。
文協会長職は、当人は最初固辞し、それを無理に引き受けさせられた。固辞したのは昔、下元健吉から浴びせられたアノ「今後、この様なコロニアの将来を論ずる会合の席に出ることは一切遠慮して貰いたい」という一言が原因だった。
その文協会長としても、幾つかの業績を残している。
なお宮坂の後、南銀副頭取の職は、役員の一人相場真一が継いだ。が、経営の采配は従来通り、専務の橘富士雄が振った。
副頭取には、当初、橘がなる予定であった。その担当業務は、主要な部門を総て含んでいた。橘は事前に、これを筆者に教えてくれた。その時、筆者は思わず、
「何もかも橘さんが一人で…」
と驚きの声を上げてしまった。
それが、影響したのかどうかは知らないが、人事が正式に発表されると、副頭取は相場に変わっていた。
橘という人は、相手が若造記者でも、また、その言うことが間違っていようといまいと、耳を傾ける寛容さがあった。現実に存在する世論として…。
ブラジル・ブーム
さて〝激動〟に関する話に入ると。──
一九七〇年代の初期の数年、ブラジルの国民総生産は、平均一〇㌫余という──数字上は──跳ねるような成長を続けた。
この数字に目をつけた国がある。
日本である。日本人は、この種の数字に弱い。
同時期、日本経済は好調だった。特に輸出がそうで、国家の保有外貨に余裕ができていた。
そこで政府は、海外投資に関する規制を緩和した。
経済界も、国内市場の拡大が限度に来ていることを知っていた。もっと国外へ目を向ける必要がある──とも認識していた。(つづく)









