ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(319)
七一年頃から、その水面下の動きが始まり、七二年以降、表面化した。
第一勧銀がウニバンコ、住友銀行がハーレス、東京銀行がフィナンシラール(ルーメ・グループ)、三井銀行がボサノ・シモンセン、三和銀行がブラデスコ、不動産銀行がインテルコンチネンタル、興銀がフィナザ…へと七三年まで続いた。(住友、東京は既進出、他は新進出)
それに誘因される様に、同年、銀行以外の企業の進出が始まった。数十社を数えた。
この間、十一月、経団連の植村甲午郎会長を団長とし、副会長数人、その他を含め、計二四人からなる使節団が、ブラジルを訪れている。
経団連は、日本の経済界の総本山である。
副会長の一人が土光敏夫であった。ブラジルとは密接な関係があり、使節団の実質上の中心と観られていた。
十三年前、土光がつくったイシブラスは、ブラジルに於ける日系企業の代表的存在となっていた。
六四年革命の前後、受注が途切れ、ビン洗い機の製造で食い繋ぐという時期もあった。が、この頃には革命政権により、大規模な発注が業界にされ、活況を呈していた。
土光は、日本では石川島に続いて、東芝の再建に成功、経営者として高い評価を得、その名声は急上昇中であった。
質素な生活ぶりもあって、国民からは〝土光さん〟と呼ばれ、親しまれていた。
当人は「運に恵まれていた。経営者は運に恵まれることが大切」と自伝に書いている。
ブラジルでも、その運に恵まれたのである。
経団連使節団のブラジルに対する印象は悪くなかった。
進出は一気に加速化、当時としては夥しい数の企業が進出した。あらゆる業種に及んだ。
何事も横並びで行動する国民性が、それを引き起こした。
そのムードは、中小企業にまで広まった。
経済界以外でも、ブラジルへの関心が高まり、訪伯者が激増した。
いわゆるブラジル・ブームである。
日系社会も〝土光さん〟の様な運に恵まれることが期待された。が、果たしてどうなるであろうか…。
なお進出は、新規の場合、子会社をつくるか、ブラジルの同業企業へ資本参加…という方法が多かった。
すでに進出している企業の場合は、孫会社をつくって…という方法が普通だった。総合商社などは、どこも、それを多数つくった。一社で十数社というところまであった。
新規、すでに進出…のいずれも、ブラジルの企業(含、事業家や農業者のグループ)との合弁もあった
以前は資本参加、孫会社、合弁は少なく、それを含めても、一九六〇年代末、活動中の企業は百社前後であった。が、七〇年代中頃には、約四百社と概算されるほどになった。
しかも、この中には「十年に一件あればよい」といわれるほど大型のプロジェクトが幾つも含まれていた。
ブラジル、日本、イタリア三国合弁のツバロン製鉄所、ブラジル、日本合弁のアルブラス(アルムニュウム生産)、同じくセラード開発のプロデセール、日本の伊藤忠と製紙業界による紙パルプのセニブラなどである。
そういう時代の流れが形成されていた。
その流れの中でコロニアでも(前章で一部触れた)日本の企業と組んで事業展開を図る動きが進展、活発化していた。
一九七〇年、北パラナで宮本邦弘グループと丸紅によるイグアスー社の工場の建設がいよいよ始まった。
宮本は十七章で登場した宮本斉の弟で、その事業を引き継いでいた。
同年、コチア産組が山本山とタピライで、製茶会社グリーン・ティーを発足させた。
山本山は、その頃、海外に茶の生産地を求めており、同社の社長がタピライを訪れた。ここではコチアの紅茶生産が行き詰まっていた。
そこでグリーン・ティーが、組合員が生産する茶を購入、緑茶をつくることになった。コチアは加工工場を現物出資した。(この頃には、組合の外部への出資が、法的に可能になっていた)
七一年、ダンボール生産の準備をしていた田中義数グループが、三菱製紙及びその子会社と提携、技術と資本を導入した。
七三年、丸紅と南パラナの日系農業者十数人が提携、マット・グロッソ州南部で二万㌶の穀物団地をスタートさせた。
七四年、ブラタク製糸が、日本の昭栄製糸、伊藤忠とサンパウロ州サン・ジョゼー・ド・リオ・プレットにショウエイ・ブラタクを設立、生糸の生産を開始した。
このほか、JETROが、日本とコロニアの中小企業同士の合弁事業を支援する制度をつくった。これを利用して、十件ほどの小型プロジェクトがスタートした。
かくして日系経済界の歴史の波は高く、高く隆起していた。一九二〇年代、五〇年代に似た現象であり、しかも遥かに大規模だった。
(その後の日本企業の中国などへの進出と比較すれば、二桁違いの少なさであったが、当時の感覚としては、大規模であった)(つづく)









