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25年第6回JICA海外移住「エッセイ・評論」最優秀賞=「平和大通りに咲く赤い花」=被爆80年、『亜国日報』から読み解く広島とアルゼンチンの絆=相川 知子(ブエノスアイレス市立外国語大学フアン・ラモン・フェルナンデス校レングアスビバス 教師)

2026年1月15日

アメリカデイゴ(セイボ)の花(広島市渡部正明氏提供)
アメリカデイゴ(セイボ)の花(広島市渡部正明氏提供)

1 赤い花と平和の街


広島市の平和公園前を走る平和大通りの並木の中に赤い花を咲かせる木、アメリカデイゴがある。アルゼンチンの国花で、スペイン語では「セイボ」と呼ばれている。

平和大通りには世界各国から贈られた樹木が植えられており、約90種類、2千本以上にのぼるという。筆者が子どもの頃、広島では「75年間は草木も生えない」と言われていたが、被爆樹木からの新芽は人々にとって希望の光となり、世界中から贈られた種や苗によって、広島は緑豊かな街へと生まれ変わっていった、と学んだ。そのような記憶を持つ筆者にとって、アルゼンチンに移住してから、広島市のホームページに「昭和28年アルゼンチン大統領夫人エバ・ペロン氏からアメリカデイゴが贈られた」と記されているのを見つけたのは大きな喜びであった。


2 事実の再構成:セイボの種子はどこから来たのか


NGOフンダシオンサダコとして広島のメッセージを伝え平和文化教育活動を続ける中、ある日フェイスブックを通じて広島の人から「エビータは1952年に亡くなっているのに、1953年にアメリカデイゴを寄贈とはどういうことか」と問い合わせがあった。

確かに、当時のペロン大統領夫人エビータは1952年7月26日に死去した。この寄贈の記録と矛盾していた。一方、1951年10月2日付の中国新聞は、亜国日報を通じてアルゼンチンから種子40種が星光丸で届けられたと報じている。エビータから贈られたセイボもこれと同じ寄贈かそれとも別なのか。

2024年アメリカサイカチが倒木した際も、エビータから贈られたと報じられた。贈呈時期が近く他の植物も含めて届けられていた可能性が高いと感じた。

エビータは戦後の日本への救援物資を送ったことで知られている。また、在アルゼンチン日本人会を訪問したり、日本人移住者がキリスト教の洗礼を受ける際には後見人を務めたりなど、日本人社会との交流を積極的に行っていた。支持を集めるためだったという見方もある。日本人には選挙権がなかったので、アルゼンチン生まれでアルゼンチン国籍もある日系二世に印象をよくするためだったのか。その必要性はなく純粋な善意の表れとして語られることも少なくない。また、政府内にも日系二世の要人を抱え、公邸では日本人の使用人もいたと聞いている。ペロン大統領夫妻は、特に日本人に対して特別な思いを抱いていたようだ。勤勉で誠実な日本人移住者は、アルゼンチン社会では好意的に受け入れられており、戦争の動向や原爆投下の報道はアルゼンチンでも即座に伝えられ、多くの人々が深い同情を寄せた。


3 記憶と記録を探して


アルゼンチンは中立国だったため、他の南米諸国のような日系社会への厳しい仕打ちはなかったが、戦時中は日本語の使用が認められず、日本人会、日本語学校の閉鎖に加えて邦字新聞の発行も禁止された。戦後、1947年に『亜国日報』が創刊され、1948年には『らぷらた報知』が創刊された。日本語での伝達活動という新聞は遠く離れた日本のニュースを知る手段として重要であり、スペイン語の理解が十分でない日本人移住者にとって、アルゼンチン社会の様子を知るための手がかりでもあった。また邦字新聞は、広大なアルゼンチンで離れて暮らす日本人同士の通信手段であり、情報源であり、「心のよりどころ」でもあった。現地での生活情報を伝え、母国との絆を保ちつつ、アルゼンチン社会という異文化との共生についての言説が交わされる場でもあった。

私がアルゼンチンに到着した1991年にはすでに戦後移住者が多く、デカセギブームの影響で、日本語を話せる者が減少してきた時代であった。仕事では91年から94年、アルゼンチン各地に24校ある日本語学校を取りまとめる機関で活動していたので日系社会とは密接であった。日常では、ティントレリアと呼ばれるクリーニング店を経営するも、娘が日本へ行って寂しい、周りに日本語を話す人がいないし、日本の話を聞きたいと、お店の奥にあるご自宅に招かれた機会が多くあり、御馳走にもなり、さまざまな話を聞くことができた。また、両新聞社の人達とも懇意にしていただいた。それでも、広島への国花セイボの寄贈について誰からも聞くことがなかった。広島復興後援会が義援金活動をし、そこから広島出身の「がんす会」に発展したことや在アルゼンチン邦人からの寄付は中国新聞にも広島県庁にも記録があるが、樹木寄贈の記録はなく、当時を知る人もすでにいなかった。現在の広島県人会には、子どものときに親に連れられて家族移住で来た一世がいるが、幼少だったため詳しい話は伝え聞いていないという。高齢となった二世の世代も、親が定住に向けて忙しく働いていたため、昔のことを詳しく聞く機会も少なかったようだ。ましてや、戦後移住者とその子孫が大部分を占めるため、当時のことを知る人もその記録もない。2023年11月の恒例ピクニックや2025年1月5日の新年会でたずねてもわからず、広島出身の在アルゼンチン日本大使は被爆80年を目前にブエノスアイレス原爆平和展を主催したが、「そのような話は聞いたことがない」という答えだった。

当時、新聞記者や新聞に論説を寄稿していた方々の子孫にもたずねたが、伝承されていなかった。私がアルゼンチンに移住したばかりのとき聞いていればと後悔しても結局、この時代のことを知る人はすでに他界していた。アルゼンチン日本人移民史には詳細にわたってペロン夫妻と日本の関係について特別に言及があるにも関わらず、この「エビータの木」については掲載されていなかった。そのため、邦字新聞の記録を調べることが、寄贈者や時系列の疑問などを解決する唯一の手がかりだと考えられた。

広島のアメリカデイゴ(後ろの赤い花)と著者の相川さん(2025年撮影)
広島のアメリカデイゴ(後ろの赤い花)と著者の相川さん(2025年撮影)

4 邦字新聞が伝えた記録


2025年の夏、1月から3月、在アルゼンチン日本人会内日系社会史料館に通い、マイクロフィルム化された『亜国日報』を読み進めた。まず、平和大通りの樹の冊子に1953年寄贈の記載により、1953年から1954年の新聞を調べた。

1954年新年の挨拶としてペロン大統領の日本人へのメッセージが巻頭掲載。その際1953年に行った在アルゼンチン日本人会訪問や、日亜通商協定などの日本関連事業が列挙されていたが、セイボ寄贈の言及はなかった。特に注目したのは、中国新聞が種の引き渡しを報じた1951年10月2日前後に記事があるかだった。それに先立つ9月21日付中国新聞には、広島で計画されていたアルゼンチン公園の建設についての記事があり、エビータの来日計画についても写真付きで紹介されていたからだ。マイクロフィルムの都合で今度は1950年から読み始めた。解像度が低く、プロジェクターのレバーを手で回し、焦点を合わせながら探すため読みづらく、薄い印字で小さな字のため、スマホで写真に撮り拡大して読んだ日々もあった。それでも、読み進める中で日系社会と大統領府との関係が浮き彫りになった。ペロン大統領夫妻の動向や特に大統領府での日系社会500名の謁見の行事の企画、詳細、取りまとめや、エビータの体調不良からの計画変更だけではなく、人々が回復を祈る記事もあった。その中で、邦字新聞自体が行事のプロデューサー的な存在という重要な役割を果たしていたことが理解できた。1951年と1952年新年号にもペロン大統領とエビータからの新年の挨拶がスペイン語に日本語訳が付けられ掲載されていたにもかかわらず、寄贈の話はなかった。

平和大通りの樹木のしおり 平和大通り樹の会・広島市竹屋公民館(広島市渡部正明氏提供)
平和大通りの樹木のしおり 平和大通り樹の会・広島市竹屋公民館(広島市渡部正明氏提供)

5 邦字新聞に記された真相


しかしながら、さらに読み進むと、1952年1月2日付二面全部に、大きく「亜国原産種子40種が届き」と詳細が載っていた。社長の宮地勝夫氏が長崎に贈られた「ルハンのマリア像」と同様に広島にも国際平和のために何かしたいと、広島復興後援会の後援を得て計画を進めたという。農務省と相談して緯度など環境に合った種子を選択し、それを受け取り、エビータ名義にしようという段取りで星光丸に託した。40種の種子を中国新聞社に届け、渉外担当者から1951年10月に広島市長に受け渡すことができた経緯が詳細に記されていた。一部の種は時期的に採取が間に合わなかったが、日本の春の初めにまくことが推奨される種子があったため、まず3月に間に合うように届けられ、結果として10月初めに広島に届いた。濱井広島市長が受け取る写真もあった。記事の後半には、広島に贈られたうち代表の植物7種の特性が紹介されていた。

1セイボ、2ハカランダ、3ティパ、4パロ・ボラッチョ、5ティンボ、6モージェ、7パタデブエイ、いずれもブエノスアイレス市民には御馴染みで現在も街を彩る樹木の名が並び、その解説が記されていた。十七町歩に計画しているアルゼンチン公園を作る規模には40種類は十分であったという。さらに東京大学と京都大学で種が育てられることになっており、愛知の安城農林高校は五十周年記念で同じように種子が送られた。アルゼンチンでは日系社会の花卉栽培のリーダー的存在の賀集農園と猪狩農園で育成調査が行われるという。こうして、伝説のエビータの種が記録として確認された。

この事実から、広島の記録には時系列には誤記もしくは記憶のずれがあるように思われる。例えば、1951年10月が本来の記載すべき受け渡し年だったのに、誤って1953年として残ったのは、年号の昭和26年なら28年と誤記した可能性がある。または、育苗をして植樹が1953年なので「1953年にエビータが贈った木」として記憶された可能性が考えられる。記録と記憶の齟齬、そして印象的な〝贈り主〟のセイボの木をめぐる物語を確認することができた。広島市国際関係へ問い合わせたが古い話で資料が残っていないという回答であった。あってもなくても、これから倒木があろうとも、その記憶を大切にすれば、そこに込められた平和の祈りは生き続ける。その記憶を重要視し記録し直す使命を改めて感じた。

アルゼンチン国旗とアメリカデイゴ(2025年)
アルゼンチン国旗とアメリカデイゴ(2025年)

6 記憶と希望をつなぐ花


広島の再建と復興を願い、地球の反対側から届けられた平和と友情の象徴。それは、アルゼンチン政府から提供され、『亜国日報』の宮地勝夫氏がイニシアチブを取ったが日系社会の人々によって後援されて実現した贈り物だった。それが、今も平和大通りに咲く、赤い国花セイボの木であり、その一つ一つの花は集まり大きくなり、より美しく見える。

また、一方で、平和大通りの本格的な植樹は、1955年以降に始まったとされている。1957年には供木運動が展開され、国内外から多くの樹木が集められた。「アルゼンチン公園」構想の行方は不明であるが、アルゼンチンから届けられた種から育ったとみられる樹木は、現在のセイボや倒木したアメリカサイカチが育った鶴見橋付近だけでなく、平和公園やその周辺にも残っている可能性がある。近くの市立竹屋小学校では、子どもたちが樹木に看板を付け、思いを掲示し、受け継いでいるという。広島・長崎被爆から80年を迎えているにもかかわらず、世界が再び核兵器使用の脅威に直面している今だからこそ、平和とは一人ひとりの心にまかれる「種」から育つものだと伝えたい。だからこそ、過去の記憶を丁寧に掘り起こし、記録し、広める意義があると思う。

今回『亜国日報』のアルゼンチンの種の寄贈の記事を通じて新たに確認できたのは、1951年でも1953年という記述であっても、広島の1957年供木運動に先立って、世界で最も早く「平和と友好の種」が地球の反対側のアルゼンチンから届けられていたという事実である。それが、アルゼンチン国花セイボをはじめとする種子であった。

70年以上の時を経て、その木が倒れるのであれば、私たちは再びその志を思い起こし、あらためて「地球の反対側からの平和と友情の種」を広島の地に送り、未来への希望としてまき続けたい。


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