7月25日=恩赦委員会での4証言全文=政府謝罪を勝ち取った魂の叫び

政府謝罪の後、エネア・アルメイダ恩赦委員会委員長らと手をつないで連帯を示す、奥原マリオ純さんやブラジル沖縄県人会代表者の皆さん

ブラジル日本移民に歴史的正義を=奥原マリオ純

奥原マリオ純

 1908年6月18日に笠戸丸がサントス市に入港してから116年という、ブラジル日本人移民の歴史における節目。今日に至るまでには、簡単な振り返りが必要だ。
 2013年、アドリアーノ・ディオゴサンパウロ州議を委員長とする真相究明委員会によって公聴会が開かれ、サンパウロ州議会で日本人移民に対する拷問と死亡の事例を告発した。私たちは、1946年から1952年の間に起こった重大な人権侵害を列挙した報告書を提出し、生き証人がいたアンシェタ島の不当拘留事件に焦点を当てた。
 私たちは政治的迫害、拷問、恣意的逮捕、屈辱、虐待、そしてゼトゥリオ・ヴァルガス独裁政権の遺産である人種差別のエピソードを明らかにした。これらはすべて、戦後、ブラジルの憲法制定期に起こったことである。8年間のエスタード・ノーヴォの後に、1946年には、投票によって選ばれた大統領エウリコ・ガスパール・ドゥトラと、新しい民主的な憲法憲章を制定する制憲議会があったことを忘れてはならない。
 第2次世界大戦中、日本移民がこの国の敵とみなされ、戦後はテロリストの疑いもかけられた。どんな個人でもだ。暴力に加え、日本語新聞発刊停止による情報入手禁止、日本人の集会禁止、公共の場での日本語使用禁止など厳しい制約が実施された。
 こうした弾圧はサンパウロ州や地方での内ゲバを引き起こし、コミュニティの分極化を招いた。戦後に民主化された新しい時代にもかかわらず、エスタード・ノーヴォ法がまだ有効であったことも、DOPS(社会秩序・政策局)が苛烈な態度を取り続ける一因となった。
 この事件の山内房利と池田福夫は、1946年にサンパウロ州北岸のウバトゥバにある強制収容所のようなアンシェタ島で逮捕された172人の日本人移民の一人である。この172人のうち、約140人は無実だった。実際に犯罪で服役していた約30人は少数派だった。
 山内と池田のケースに話を戻すと、彼らは正式な罪状もなく、屈辱的な心理的圧迫法である「踏み絵」を含む違法な取調べを受けていた。踏み絵とは、警察署で日本の国旗や天皇陛下の写真を床に置き、それを踏むように命じるというものだ。それを踏むと釈放された。当時の警察は、これは「犯罪者を発見する方法」と考えていた。
 山内と池田は、旗を踏めという代表の命令を拒否し、アンシェタ島に連行された。二人とも拷問と虐待を受けた。山内房利は抵抗し、島で一緒にいた172人の日本人の命を率先して取りまとめた。池田福夫は拷問に耐えられず、1948年に亡くなった。彼の医療記録には、23歳で「自殺した」と記されている。 彼の遺骨はサンジョゼ・ドス・カンポスの集団墓地に埋葬されているため、家族や友人たちはサンパウロ州内陸部のポンペイア市に象徴的な墓を建てた。私たちは、絵画と写真の芸術における偉大な才能を失った。
 山内氏と池田氏のケースに基づき、私たちは真相究明委員会で、エスタード・ノーヴォ法の下、国家による弾圧がブラジルの日本人社会全体に影響を及ぼし、日本人家族の尊厳の保持を妨げたことを証明した。
 これは重要なことである。自分たちの言葉を話すことを妨げられたら、どうして民族の尊厳を保つことができるでしょうか? 結婚式、スポーツ活動、葬式など、社交の場を持つことも妨げられた。日本人学校は閉鎖された。日本語の新聞も停刊、発行禁止された。郵便物の検閲、サルボ・コンドゥト(移動許可証)を使っての移動制限など。何千人もの不当逮捕。両親、女性、老人、子供たちまでもがDOPSに逮捕された。
 そして最も残酷なのは、財産の没収、トメアス市、パラナ州、サンパウロ州内陸部のトゥパン市での強制収容所、コンデ・デ・サルゼダス街の強制退去や、1942年3月の政令4166号に基づいて1943年にサントス市から24時間で強制的に排除された6500人の移民とその子孫のような集団追放などである。
 もう一つ重要な点がある。ブラジル日本人移民は、破壊工作員、「キンタ・コルーナ」(スパイ)などと非難されたが、彼らは戦争をしていたわけではなく、ただ単に、生き延びるために戦い、日の当たる場所を求め、何よりもブラジル生まれの子供たちを教育していたのだ。
 日本移民は、母国政府(日本)が戦時中に犯した過ちを非難される筋合いはない。ここでは、彼らはみな民間人であり、畑で食糧供給に貢献し、すでにブラジル社会に溶け込み、さまざまな分野で働いていた市民だった。
 2018年、ブラジル沖縄県人会は、1943年のサントス強制追放に関する調査に貢献することで、2015年に始まったこの活動に加わった。もちろん、このプロセスは、恩赦委員会の範囲により、1946年のアンシェタ島事件に基づいている。
 しかし、サントスのエピソードに象徴される政治的迫害と抑圧を引き起こしたエスタード・ノーヴォ法は、戦後も有効であり続けた。法律の世界では、1946年以前と以後で、暴力の時期を分けることができる。だが、実際には、日本移民とその子どもたちに対する暴力は、連続した時間軸の中で起こっていた。
 今日、私たちは記憶と正義へのコミットメントを再確認する。ブラジルは過去と和解し、歴史的過ちを糾す機会を得た。 私たちの家族にとっては、先祖に敬意を表し、精神的な慰めをもたらす瞬間だ。私たちの両親や祖父母に対して行われた残虐行為を消し去ることはできないが、これらの悲しいエピソードから学び、出自や民族に関係なく、誰にも再び起こらないようにすることはできる。
 これらは人種差別、外国人排斥、憎悪、不寛容のあらゆる形態と闘う私たちを鼓舞する抵抗の物語だ。私たちは、仕事、努力、そしてブラジルへのコミットメントをもって、これまで通り続けていきます。日本移民の歴史は、ブラジルの歴史でもある。
 新しい世代、私たちの子供たち、孫たち、ひ孫たちのために、私たちは、より公平で、より団結した、より人間らしい未来のために、民主的な法の支配を守ることを約束する。そして、教育だけが変化をもたらすことができる。教育は、多様性を尊重し、誰もが尊敬と尊厳をもって生きられる社会を築くことの重要性を未来の世代に教える、この戦いにおける私たちの主要な手段なのだ。
 今日、改めて私は「ブラジル日本移民に歴史的正義を」と訴える。

サントスを追われた私の家族、子孫としての証言=比嘉玉城アナマリア

比嘉玉城アナマリア

 私はブラジル人、サンパウロ生まれのヒガ・アナマリア・タマシロです。この公聴会に出席する代表団の一員となる機会をいただき、大変感謝しております。
 私のスピーチに先立ち、すでに先達の方々が、後世に残るこの日の重要性を強調されています。日本人移民の子孫である私達が、どのような道をたどったのか、今の世代には想像すら出来ないでしょう。
 大多数はサンパウロ州内陸部のコーヒー農園で働く事になりました。先祖の主な夢は、数年間働いて、日本でより良い暮らしが出来る様に、しっかり貯金をして帰って来ることでした。
 畑仕事の後、多くの日本人はサントス市に戻り、港湾労働者や採石場で働き、小さな農場を借り、通りで野菜を売ったり、小さな商店で働いたりしました。日本人移民の夢は、1943年7月8日、サントスの沿岸地域に住むすべての日本人が24時間以内に家を去らなければならなかった時、悪夢となりました。
 それは大きな苦悩と恐怖と不安の時であり、その24時間に感じた恐怖は、体験した者だけしか語る事が出来ません。報道によれば、兵士たちは24時間以内に立ち退くよう家にやってきたが、実際には鉄道駅に移動しなければいけなかった為、大多数の人達にとっては、わずか数時間しか無かった。
 この強制退去によって、日本人とその子は怯え、パニックに陥り、どうしていいかわからな くなっていた。当時少女だった私の叔母たちの記憶では、兵士達が入って来て、すでに家の中の価値のあるものを見ていたのですが、祖父の家にはレコードプレーヤーがありました。
 祖父は商人で、バナナの倉庫とトラック2台と荷車2台を持っていました。それらはトレーラーとして、近隣の野菜を売る人々に荷物を運ぶぶために使用されていました。彼は全てを置いて、5人の子供たちと私の祖母と少しの荷物を持って、着の身着のままで駅まで歩かなければならなかった。残した家財道具や仕事道具と家の鍵はブラジル人の友人に預けました。政府と日本人の間に不信感が生じたこの時期が過ぎれば、みんながサントスに戻り、普段どおりの生活を送ると信じていたからだ。
 母はすでに結婚していて、当時、母は妊娠7カ月の子をお腹に宿し、とても苦しみ、怯えていた。彼女は胎内の我が子を守るために必死だった。混乱は計り知れず、多くの意見が対立し、人々は何が起こっているのか、なぜ自分達は自分の家から、自分達の町から強制的に連れ去られるのか、その理由が全く分からなかった。
 駅で泣いていた母の声が、警察官の耳に入り、こちらに近づいて来ました。しかし、私の両親に会ったばかりの親戚が、「彼女は私の娘で、何も問題ないから」と警官に言って、彼らは立ち去りました。やっと私の母は落ち着きました。母が繰り返し私に語ってくれたのは、胎児に負担がかかるのを恐れて、駅の机の下に横たわっていたということだ。母はその1年前に長女の死産を経験していた。
 サンパウロ移民収容所 (Hospedaria do Imigrante)に到着すると、そこは過密状態で、人々は 文字通りぎゅうぎゅう詰めにされていた。収容所に滞在している間、皆が寒く、空腹で、深い悲しみに暮れていた。収容所が満室だったため、多くの人達は列車から降りる事さえ出来ず、収容所の隣で、数日の間、列車の中で寝なければならなかった状態だった。
 その損失が物質的な物だけでなく、非常に感情的、心理的なものであり、人々にトラウマを残した事を想像出来ますか? サントスから強制退去させられた人達は、あまりにも悲しい記憶を残した為、子供達にその事件について話す事を避けていた。多くの人達は後になって、そのことを知り、ある人達は両親がこの世を去ってから知った人もいるが、家族の証言を聞いて、今になって初めて知った人もいる。
 サンパウロに親戚がいる人達は、サンパウロに残ろうとしたが、法律の壁に直面した。私の祖父の場合は、子供が沢山いる理由で家を借りる事が出来なかった。そのため祖父はパラグアス・パウリスタに行かざるを得なかった。私の両親は、サンパウロの市営市場の近く、パジェ通りに、子供のいる友人夫婦からカーテンで仕切られた部屋を借りて、なんとか住んでいた。その部屋のオーナーとキッチンをシェアしている所を想像して見て下さい。サントスを追われた後、私たち家族は屈辱と極貧の生活を強いられたのです。
 数年後、祖父はサントスに戻りましたが、かつてのような商人になる事が出来ず、その後、サンパウロ市に引っ越した。私の両親はサンパウロ市に残り、5人の子供を育てた。
 あれから81年の時を経て、私たちは連邦政府に対し、「スパイ通報容疑」という不当な言いがかりに基づき、わずか24時間で強制退去させられた人権迫害による多大な困難の為、精神的損害に対する非金銭的補償を求める為に本日の恩赦委員会の公聴会に参加している。
 この悲劇的な人権迫害の事件を記憶しておく事は、サントスからの強制退去のような暴力的で恐ろしい悲劇が二度と繰り返されない為に重要だ。連邦政府が戦時下及び戦後の日本人移民に対する人権迫害について謝罪するこの歴史的瞬間に参加できることは、私の先祖、両親、祖父母、そして、この悲劇的な時代を生きたすべての人々の名誉を回復し、その尊厳に敬意を表することだ。先祖の皆様は、きっとどこにいても感謝の気持ちを送っている事だと思う。
 恩教委員会の謝罪表明について、心からの感謝と敬意を表し、私の意見表明を終わります。

ブラジル沖縄県人会=元会長 島袋栄喜

島袋栄喜

 1943年7月8日の朝、銃で装備した軍人や警察官たちがサントス市在住の日本移民の住宅に押しかけ、24時間以内の立ち退きを要求した。
 軍とともに混乱を利用した略奪者たちが押し寄せ、家族の目の前で衣服、家庭用品、農具、馬車、馬、豚、鶏などすべてを持ち去っていった例も数々あった。中には夫がすでに仕事に出かけていて、妊娠10カ月の妊婦にもかかわらず、小さな子供を連れ添って家を追い出され、満員の汽車の中に放り込まれた例もあった。老人も、病人も、子供も、容赦なく追い出された。
 日本人移民は人間としての尊厳や最低限の生存条件を奪われ、さらに政府の命令によって、証拠もない「スパイ通報容疑」を理由に住み慣れた街を追われ、永年にわたって作り上げた財産を失い、日本人移民共同で建設した学校や病院、銀行預金等を資産凍結令によって手加減抜きで取り上げられた。
 うつ病に陥り、ショックから立ち直ることができずに亡くなった人もいた。先人の皆さんは懸命に働き、汗と涙を流して、人生で勝ち得たものをすべて失ってしまったのだ。彼らのほとんどは小規模な農民、漁師、商人だった。
 2019年に公開された。松林要樹監督の『オキナワ サントス』は数少ない生存者の証言をもとに製作された映画だ。また、2022年に宮城あきら編集長が率いるブラジル沖縄県人移民研究塾の発行物『群星』の特別号で、生存者と子孫家族の証言が発表された。『オキナワ サントス』の撮影後、この映画の証言者のうち8人の方々がすでに亡くなってしまった。
 そして戦後もアンシエッタ島監獄で日本人への迫害は続いた。「日の丸」や「御真影」を踏むことを拒んだために逮捕され、アンシエッタ島で拷問され、とうとう命を失った日本人移民もいました。これは奥原マリオ・純監督の映画『闇の一日』で描かれている。
 地域社会の結集により、サンタクルス日本人病院が47年ぶりに返還され、現在はサントス日本人会となっているサントス日本人学校も75年ぶりに返還されました。
 しかし、サントスから追放された585世帯、6500人以上の人々はどうなったのか? 歴史の闇に忘れ去られているのではないか? アメリカやカナダでも同様のことが起きたが、アメリカ政府は30年以上も前に誤りを認め、賠償に加えて謝罪した。
 ブラジル日本移民100周年の記念祝賀行事の中で、数多くの本が出版されているが、これらの本をめくってみると、サントス強制退去事件をめぐる人権迫害についてはほとんど何も書かれていない。80年以上が経過している今日、6500余名の先人たちの名誉回復が急務となっている。まだ生存者が健在であるうちに実現してほしい。
 私たちが切実に望んでいるのは、この恐ろしい歴史的不正義を糾し、日本人移民の正義を回復することだ。私たちはまだ生存している数少ない方々に、政府が誤りを認めて謝罪したということを是非ともお伝えしたいと思っている。
 また、悲しみ苦しみながら亡くなった人たちに対して伝えたいことがある。政府は自らの誤りを認め、今後は誰に対してもこのような人権迫害が二度と起こらないよう全力を尽くすと伝えたい。そして、迫害を受けた皆々様は決して犯罪者でもなければ、悪党でもなかったと言いたい。皆さんは善良であり、勤勉な、立派な市民でした。どうか、安らかにお眠りください。
 本日、連邦政府がサントス強制退去事件の人権迫害の過ちを認めて謝罪してほしい。そうすれば、私は心から安堵し、今、先人たちに祈りを捧げることが出来る。

戦中戦後の日本移民迫害への政府謝罪について=ブラジル沖縄県人移民研究塾「郡星」編集長 宮城あきら

宮城あきら

【一】本日ここに、私たちブラジル日系人は首都ブラジリアにおいて、連邦政府が過去の人権迫害の過ちを謝罪する最高の歴史的瞬間を迎えることができるのではと、慶びで胸が高鳴っております。
 連邦政府人権・市民権省傘下の恩赦委員会エネア・アルメイダ委員長をはじめとする委員会委員各位の皆々様、第2次世界大戦の時下並びに戦後の日本人移民への人権迫害をめぐる謝罪審議に当り、私たちが求め続けてきた《補償を伴わない謝罪と反省》の要請を受け入れ、これを審議決定してくださるよう、満腔の声を上げたいと思います。
 先程島袋栄喜氏、アナマリア玉城・比嘉さんが語りましたように、1943年7月8日、突然に「スパイ通報容疑」の無実の罪を着せられて、「24時間以内退去」という過酷な命令を強制され、武装兵やDOPS厳戒或監視の下で、塗炭の苦しみを強いられた6500名余の先人たちが、今まさに81年の歳月を経て名誉を回復し、歴史の闇に埋もれていたサントス強制退去事件の真実を語らせる、歴史的瞬間に立ち会うことが出来るのではと、万感胸に迫る思いであります。
【二】振り返れば、2016年8月、日本から来た映画監督松林要樹氏はサントス日本人会館において「強制立ち退き時のサントス在住日本人585家族名簿とその立ち退き先」という資料を発見しました。その585家族の60%以上は私たち沖縄県人移民の先人たちでした。初めて知るその歴史的事実に強い衝撃を受けました。
 私たちは松林監督と共に、人々に語られることも、歴史の本に書かれることもなく。歴史の闇に置き去りにされているサントス強制退去事件を掘り起こし、その真実を明らかにすべく、当事者たちのインタビューに全力を上げました。そして、ブラジル移民史上最大の日本人移民への人権迫害事件としての実態とその本質を「郡星」誌上に書き続け、また松林監督は映画『語られなかったサントス強制退去事件』、並びに映画『オキナワサントス』を制作し、社会に訴え続けました。
 さらに映画『闇の一日』の監督奥原マリオ純氏とブラジル沖縄県人会は戦時下並びに戦後のアンシュッタ島監獄における不当極まる人権迫害をめぐって、連邦政府に 「補償を伴わない謝罪と反省」を訴え、2度と同じ過ちを操り返さないことを求めました。
 しかし、前政権下の恩赦委員会に申請した私たちの請願は否決された。それでも諦めずに昨年9月に再申請しました。それが認められて、去る4月24日にエネア・アルメイダ委員長から「7月25日再審議」の知らせを受けたのだった。
 同委員長は、「皆さんが埋もれた歴史を掘り起こし、私たちに伝えてくれたからこそ、その歴史を知ることが出来ました。私たちこそ皆さんに感謝する」と述べた。私たちはエネア・アルメイダ委員長の高邁な志に感動し感謝を述べ、そして本日、多くの仲間たちと共にブラジリアにかけ参じ、謝罪審議を見まもり、高鳴る心を以て政府の謝罪表明に立ち会うことを望んでいる。
【三】人権や自由は幾百年もの人間社会の歴史の中で、累々とした血と涙の苦闘を通じて築きあげられた人類史の尊い共有財産であり、何人と言えども、また如何なる政府権力であろうともこれを犯すことは許されない。今日のブラジル連邦政府が、過去の戦時下当時の連邦政府による未曽有の差別的人権迫害の過ちを謝罪することは、人類史共有の真理に立脚した英断であり、高い社会的評価が与えられるものと確信する。
 またウクライナ戦争、イスラエル―ガザの戦乱に揺れる現代世界の危機の中にあって、二度と同じ過ちを繰り返さぬことを願う私たち、そして全世界の平和と安寧を切実に願う人々にとって連邦政府が今回謝罪すれば、それは大きな歴史的、社会的意義を有するものと確信致します。
 だからこそ今回委員会が謝罪を決定すれば、歴史の闇に置き去りにされてきたサントス強制退去事件に改めて歴史の光を当て、戦時下及び戦後の日本人移民の苦難の歴史を書き変える画期的な契機となり、全ての歴史家・研究者たちにその意義を告げ知らしめる移民史研究の出発点となるに違いない。これに応えて私たちはその先頭に立ち、今後とも埋もれた歴史の真実を明らかにすべく尽力する所存である。
【四】最後に、今回恩赦委員会が謝罪表明すれば、私たち日本人移民の子孫である新らしい世代の若者たちに、大きな希望と勇気を与えるインパクトとなるに違いない。
 今日のブラジルの総人口2億1500万人の中の日系人人口は約270万人と言われ、人口の約1%余に過ぎない。少数民族である日系人社会に対し、ブラジル連邦政府が人種差別による人権迫害の過ちを正当かつ誠実に謝罪すれば、わが子や孫たちは万雷の拍手を以て迎え入れるだろう。
 わが子孫たちの祖国はブラジルであり、1世移民の親たちの教育熱の影響を強く受け、ブラジルの大学で高等教育を学び、今日ではブラジル社会のありとあらゆる社会生活の部門に進出し、ブラジル社会の発展のために尽力している。
 また、1世移民の祖父母や父母達から伝承した国際性豊かな日本・沖縄の芸能・スポーツ文化を、わが子や孫たちはブラジル社会の文化としてブラジル社会に定着させ、ブラジル社会の発展のために益々励み、未来に向かって大きく羽ばたいていくだろう。
 恩赦委員会の皆々様、そして会場にご参集の皆々様、本日は誠に有難うございました。重ねて深なる敬意と感謝を申し上げ、私の慶びの言葉と致します。ご清聴ありがとうございました。

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