ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(208)

検挙は地方の場合、支部役員を対象としたから、この人もそうであったろう。
以下、報告記の一部である。
執筆者は四月五日、友人宅を訪問中、警官に引致され、その夜十二時半の汽車でサンパウロのDOPSに送られた。
が、訊問を受けることなく、未決囚拘置所へ移された。
そこで入れられたのは七×九㍍くらいの房だった。
ここに多い時は九十人、少ない時でも五十人が押し込められた。
他の房も同じ様な具合だった。夜は肩を縮め、足をすくめて寝た。寝返りをうつこともできなかった。
人いきれとコルションから出る塵埃は部屋の空気を汚濁し、誰も彼も呼吸器を痛めてしまった。
朝食はカフェーらしい臭いのする砂糖水とごく小さなクズ粉製のポン、昼食は米と豆だけだった。肉も支給されたが劣等肉で悪臭が鼻につき、食えぬことが多かった。夕食も同じだった。日曜の昼食にはマカロンが出たが、ひどくマズかった。
食器は一度も洗ったことがないような汚さで嘔吐を催した。
野菜不足で誰もが便秘で苦しんだ。外部から買うという方法もあったが、ひどく高かった。仲介役の看守がピンハネしていたのである。
皆、半病人の様になった。
病気になっても、直ぐには手当をしてはくれなかった。
刑事の取調べは乱雑極まりなかった。ここに入って直ぐ呼び出された者もあれば、一カ月後だった者もあった。
すでに釈放された者を呼びに来たり、取り調べ終了者と未修了者を混同したり、姓名を間違って記録したり…というお粗末さだった。
執筆者が取調べを受けたのは、二十六日目のことであった。
尋問の内容は姓名、生年月日、住所、ブラジル渡航の年月日などの他、戦争の勝敗に関する観方と臣道連盟との関係であった。
勝敗については、
「私は日本が勝っているものと思う」
と答えた。
「その証拠があるか」
と問うので、
「連合国は未だ戦争終結勝利の公式声明を発表しておらぬ。連合国が勝っておれば、何故、堂々と発表せぬのか」
と答えた。
続いて二人の間に、
「公式声明は発表してあるのだ。日本は敗けておるのだ」
「聞かぬ」
「新聞では日本が敗けたといっているではないか」
「戦争は武力戦ばかりではない。思想戦であり宣伝戦でもある。新聞の報道は信用せぬ」
「実際、日本は敗けておるのだ。どうしても信じぬか」
「信じぬ。日本政府の公式声明がはっきり判るか、日本からの外交官が公式に日本が敗けたと発表すれば、信じるかもしれぬが、これは精神的問題でもあるから、信じるかどうか判らぬ」
…と問答が続いた。
臣連との関係については、次の様に答えた。
「私は連盟の精神が日本精神の発揚にあることを知って加盟した。日本精神は四海兄弟、世界平和の思想である。
この精神こそは、日伯両国友好緊密化を増加するに役立つもので、要約すれば、連盟の精神は人類として正しき道を歩むことにあり、これこそ正義への道である。
連盟の綱領には戦争の勝敗については一語も書かれてはいない。
連盟は何等ブラジルの治安を害し和平を乱すものではない。連盟を悪く言うものがあれば、その者こそ、世界平和のための反逆者であり、ブラジルの治安を故意に妨害しているのだ」
しかし書記=記録係の刑事=は、これをタイプしようとしなかった。ために、次の同種の質問には、答えを簡単に打ち切った。
この他、
「野村が殺されたのを知っているか」「知っている。新聞で知った」
などの問答があって、取り調べは三十分くらいで終わった。
執筆者は、こう続けている。
「私はタイプライターの後ろに居って、タイプしているのを注意して読んだが、話したことの三分の一も記録していなかった。
要するに警察に都合のよいことばかり記録したのであった。
そして三十分くらいして新しい書類を出して、
『前の分は間違っていたから、タイプをし直した』
といってサインを要求した。
私は一見して不利な事項を書き加えた調書であるとみたが、この書類によって起訴されても構わぬ、と度胸を決めて署名した。
訊問の内容は誰も同様であり、調書は読み聞かせることはなく、署名を要求、殆どの人が、如何なる内容が記録してあるのか知ることなしに署名していた」
という。
この部分は重要である。DOPSの供述調書は、信用できないことになる。
十一、二章で登場した押岩嵩雄の話でも被留置者は「皆、メクラ判を押した」という。当時の日本移民は、成人してから来た場合、ポルトガル語を読める者は少なかった。(つづく)