ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(205)
それから二十一年後の一九六七年、九十歳の古谷は、筆者に、同じ家の客間で、その時の様子を、こう語った。
「なあーに、あっちの部屋の窓を割られただけで…」
この一言を思い出す度に、タダの外交官ではなかったような気がする。
調べてみると、一八七六(明9)年、愛媛県に生れ、京都の同志社の英語学校を出て上京、三菱に勤務後、国民新聞の記者をし、さらに北米に渡り苦学三年、帰国して外務省入りをしている。
そしてアルゼンチン公使となったが、それを辞する時、外務次官の候補に上がったという。
退官後、ブラジルに来てサンパウロ州南部、大西洋岸に近いサントス━━ジュキア線の沿線でバナナ園を営んだ。やがて日本の山下汽船の社長に渡りをつけ、サントスでバナナの欧州、アルゼンチン向け輸出を手掛けた。
一時はブラジル産の輸出の六割を扱ったという。
戦争で、その事業は終わった。
話を四月一日に戻す。
特行隊は、決死隊の出発から、やや時間を置いて、野村宅に向かった。といっても、野村宅は近くだった。
指揮は谷口正吉がとった。谷口は、五人の内の最年長というわけではなかったが、人物を見込まれたのである。
五人は野村宅に着くと、家の周囲を取りかこんだ。夜明け前だった。谷口が指示した。
「ポルタが開いたら飛び込もう」
と。
未だ暗かった。五人で家を取り巻いて待った。
夜が明けた。家の中が明るくなった。野村夫人が裏口のポルタを開けた。
一人が、夫人を押さえた。

他が蒸野太郎を先頭に、屋内に突入した。
野村が何事か、と寝室から出てきた。
蒸野が発砲した。
野村、即死。
付記すれば、高木俊郎著『狂信』に、その時の様子が、関係者の証言を引用して記されているが、外は真っ暗だったという。霧がかかっていれば、別の表現になった筈だ。
山下は「自分も(家に突入して)引き金を引いた。が、不発だった。緊張していたせいか、そのほかのことは覚えていない。ただ、本人以外は傷つけてはいけない、と思っていた」
という。
野村を撃った蒸野については、筆者は前記した様に日高の紹介で、二〇〇八年一月に会うことが出来た。
その後も、しばしば会って話を聴いた。が、この人の場合、野村を撃ったその瞬間に関しては、なかなか質問できなかった。何度目かに思い切って訊いてみた。答えは、こうであった。
「野村とわかったので…ピストルの引き金を二度引いた。野村が倒れた…」
蒸野は、翌年九十歳で永眠することになるが、この時その目は、やや青みを帯びた灰色をしていた。視線は斜め上を向いていた。遠くを見ていた。
蒸野太郎は、一九一九(大正8)年、和歌山県に生まれた。父親は筏乗りで、当人もその修行中だったが、十八歳の時、家族で移住した。
戦時中はキンターナで棉作りをしていた。
毎朝、家族全員で東方に向かって遥拝、日本の勝利を祈った。
警官が日本人の家宅捜索をしており、蒸野家にもやって来た。
その時、父親が先ずした事は、十三歳の娘に御真影を持たせて裏の山へ逃げさせることだった。
終戦後は(邦人社会に起きている混乱について)同じキンターナの新屋敷や吉田、谷口と、よく話をしていた。
その内、ツッパンで日の丸事件が起きた。仕事が手につかなくなった。(日高と同じ表現だった)
それ以前に、蒸野は臣道連盟の集会に何度か顔を出したことがあった。会費の様なものを一度くらい払ったかもしれない、という。
その集会で、リンスから来た人に、
「皇室侮辱のパンフレットが出回っている」
と聞き、そういうことをする人間には死んで貰わねばならない、と思った。
筆者は(ここが急所だ)と思った。四月一日事件と臣連の接点である。が、蒸野は、こうキッパリ言い切った。
「しかし連盟の指導者は口ばかりで、こういうことをヤレと言ったことはない。実行力がなかった。理屈ではなく実行が大切だと俺は思った。
胸の中に俺がヤラナケレバ…という波動が生まれた。天誅、天から与えられた使命だと感じた。
人がヤレといったからやったのではない」
谷口も「連盟は口だけ達者で、頼りにならない」と言っていたという。(つづく)