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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(205)

2025年7月16日

 それから二十一年後の一九六七年、九十歳の古谷は、筆者に、同じ家の客間で、その時の様子を、こう語った。

 「なあーに、あっちの部屋の窓を割られただけで…」

 この一言を思い出す度に、タダの外交官ではなかったような気がする。

 調べてみると、一八七六(明9)年、愛媛県に生れ、京都の同志社の英語学校を出て上京、三菱に勤務後、国民新聞の記者をし、さらに北米に渡り苦学三年、帰国して外務省入りをしている。

 そしてアルゼンチン公使となったが、それを辞する時、外務次官の候補に上がったという。

 退官後、ブラジルに来てサンパウロ州南部、大西洋岸に近いサントス━━ジュキア線の沿線でバナナ園を営んだ。やがて日本の山下汽船の社長に渡りをつけ、サントスでバナナの欧州、アルゼンチン向け輸出を手掛けた。

 一時はブラジル産の輸出の六割を扱ったという。

 戦争で、その事業は終わった。

 話を四月一日に戻す。

 特行隊は、決死隊の出発から、やや時間を置いて、野村宅に向かった。といっても、野村宅は近くだった。

 指揮は谷口正吉がとった。谷口は、五人の内の最年長というわけではなかったが、人物を見込まれたのである。

 五人は野村宅に着くと、家の周囲を取りかこんだ。夜明け前だった。谷口が指示した。

 「ポルタが開いたら飛び込もう」

 と。

 未だ暗かった。五人で家を取り巻いて待った。

 夜が明けた。家の中が明るくなった。野村夫人が裏口のポルタを開けた。

 一人が、夫人を押さえた。

蒸野太郎さん(写真は名波正晴氏提供)
蒸野太郎さん(写真は名波正晴氏提供)

 他が蒸野太郎を先頭に、屋内に突入した。

 野村が何事か、と寝室から出てきた。

 蒸野が発砲した。

 野村、即死。

 付記すれば、高木俊郎著『狂信』に、その時の様子が、関係者の証言を引用して記されているが、外は真っ暗だったという。霧がかかっていれば、別の表現になった筈だ。

 山下は「自分も(家に突入して)引き金を引いた。が、不発だった。緊張していたせいか、そのほかのことは覚えていない。ただ、本人以外は傷つけてはいけない、と思っていた」

 という。

 野村を撃った蒸野については、筆者は前記した様に日高の紹介で、二〇〇八年一月に会うことが出来た。

 その後も、しばしば会って話を聴いた。が、この人の場合、野村を撃ったその瞬間に関しては、なかなか質問できなかった。何度目かに思い切って訊いてみた。答えは、こうであった。

 「野村とわかったので…ピストルの引き金を二度引いた。野村が倒れた…」

 蒸野は、翌年九十歳で永眠することになるが、この時その目は、やや青みを帯びた灰色をしていた。視線は斜め上を向いていた。遠くを見ていた。

 蒸野太郎は、一九一九(大正8)年、和歌山県に生まれた。父親は筏乗りで、当人もその修行中だったが、十八歳の時、家族で移住した。

 戦時中はキンターナで棉作りをしていた。

 毎朝、家族全員で東方に向かって遥拝、日本の勝利を祈った。

 警官が日本人の家宅捜索をしており、蒸野家にもやって来た。

 その時、父親が先ずした事は、十三歳の娘に御真影を持たせて裏の山へ逃げさせることだった。 

 終戦後は(邦人社会に起きている混乱について)同じキンターナの新屋敷や吉田、谷口と、よく話をしていた。

 その内、ツッパンで日の丸事件が起きた。仕事が手につかなくなった。(日高と同じ表現だった)

 それ以前に、蒸野は臣道連盟の集会に何度か顔を出したことがあった。会費の様なものを一度くらい払ったかもしれない、という。

 その集会で、リンスから来た人に、

 「皇室侮辱のパンフレットが出回っている」

 と聞き、そういうことをする人間には死んで貰わねばならない、と思った。

 筆者は(ここが急所だ)と思った。四月一日事件と臣連の接点である。が、蒸野は、こうキッパリ言い切った。

 「しかし連盟の指導者は口ばかりで、こういうことをヤレと言ったことはない。実行力がなかった。理屈ではなく実行が大切だと俺は思った。

 胸の中に俺がヤラナケレバ…という波動が生まれた。天誅、天から与えられた使命だと感じた。

 人がヤレといったからやったのではない」

 谷口も「連盟は口だけ達者で、頼りにならない」と言っていたという。(つづく)


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