ドイツ系社会も、日系ほどではないが、問題児だった。サンパウロのピニェイロスに、大きく目立つクラブを所有、スポーツの競技大会などを開催すると、ナチスのカギ卍の旗が翻り、グランドでは白皙長身のドイツ人女性のマスゲームが華やかに演じられる。
母国語の新聞を発行している。
ナチズム、少なくともドイツ至上主義が浸透している。ブラジルの学校を凌ぐ立派な学校を所有、母国語で母国式の教育をしている。いずれ家族でドイツへ帰ることを念願としている。ブラジルを自分の祖国とは思っていない。
ドイツ系が多い南部、特にサンタ・カタリーナ州の同胞社会ではドイツ語を日常語としていた。極端な例であるが、ブラジル生まれで徴兵適齢期の若者が国語であるポルトガル語を話せない、という事例もあった。
イタリア系社会にも、ドイツ系ほどではないが、そういう傾向はあった。
片付けねばならぬ…
かくの如き外国系社会の実態は、ヴァルガスにとって、どうしても片づけねばならぬ問題だった。彼は外国移民とその子供のブラジルへの同化を図った。
これは、一九三八年の新移民法によって推進した。
同年以降、外国人団体、外国語出版物、外国系二世、外国語教育、職場に於ける外国人比率、外国人鑑識手帳、宗教団体に於ける外国語による説教、外国語の看板・標識、その他に関する諸々の規制を発令した。
この内、日系社会に痛烈な衝撃を与えたのが、外国語学校そして外国語新聞に対する規制である。
外国語学校に関しては、一九三八年八月、十四歳未満の子供に対する外国語教育を禁じる政令を発した。(サンパウロとサントスは十一歳)
しかし当時の邦人家族は農家が殆どであり、十四歳といえば、すでに欠かせぬ労働力であった。学校に通わせる余裕はなかった。それと、子供は年齢的に学習の適齢期を過ぎてしまう。
また「働ける者は皆働いて金を稼ぐ、そして日本人として教育した子供を連れて、日本へ帰る」ことが共通の方針、目的であった。
子供を日本人として教育できないことは、この人生計画を否定されることでもあった。
しかも政府は、この政令を出した時、教師や学校経営者をブラジル国籍者に制限した。
その適任者は現実問題として居なかった。
日系社会は茫然とした。
日本とブラジルから吹き込む二つのナショナリズムの熱風が絡み合い始めていた。
ここでも背後に…
ところで、この外国語教育の規制には、奇妙なことがあった。
規制発表に呼吸を合わせる様に、ポルトガル語の新聞が一斉に日本語学校を攻撃、ブラジル政府の教育院院長が非難、サンパウロ州政府学務局の視学官が現地調査のため、地方に飛ぶという騒ぎが起こったのである。
その機敏さは、全くブラジル人らしくなかった。また、その動きと報道の派手さにも不自然さが臭った。
「ジャポネスの集団地には、たいてい、日本語学校があり、合計すれば数は多くなる」ことくらいは誰でも知っており、今更大騒ぎするような話ではなかったのだ。
その機敏さと派手さは、誰かが背後で糸を引いていた臭いがする。
さらに、規制は施行の段階では日本、ドイツ、イタリア三カ国語の学校のみを対象とし、特に日本語のそれを狙い撃ちしていた。
これも別の何かが絡んでいた臭いがする。
当時、国際情勢は大きく動いていた。
日本、ドイツ、イタリアの三国が急接近、いわゆる枢軸国と呼称されていたが、これが米英側の陣営と対立、双方の関係は悪化していた。
支那に於いては、蒋介石軍と日本軍の闘いが長期化、米英の蒋軍への軍需物資支援も本格化していた。つまり日本と米英の縄張り争いが深刻化していた。
ブラジルでは、米英はすでに長期に渡り、経済面で大型の投資・援助をしていた。それは、ブラジルを自分たちの縄張りにしているということであった。
ワシントン、ロンドンの本国政府から観れば、支那もブラジルも同じだった。そういう視点で戦略を進めていた。
その指揮下にある在ブラジル公館(大使館、総領事館など)は、当然それに忠実であった。