ジウダ氏の名前が英雄の書に=ハイチ地震で亡くなって13年後

小児科医で衛生士、人道支援活動家としても知られる故ジウダ・アルンス・ニューマン氏の名前を政府の顕彰者名簿『英雄の書』に記すことを決めた法令が裁可され、24日付連邦官報に掲載された。
25日付アジェンシア・ブラジルで彼女の写真と名前を見た瞬間「ああ、ハイチ地震で亡くなったあの女医さん」と、13年前の地震のことを思い出した。
ジウダ氏は1934年にサンタカタリーナ州フォルキリーニャ市で生まれた。子供の頃、天然痘が流行した際、父親が馬で近隣の家を回り、病人を荷車に乗せ、母親に手配させた病院に3時間もかけて運ぶという無欲の行いを見たことで医師を目指したという。
大学卒業後、地元の幼児病院に勤め、貧困地帯の診療所の管理担当になったこともあり、子供の栄養失調撲滅に奔走した。下痢などによる脱水症状での死者を激減させることにつながった自家製経口補水液の計量スプーンなども考案した。
他の兄弟は教師や聖職者を目指した。サンパウロ大司教区の枢機卿を務め、ブラジルでの軍事政権独裁に反対したパウロ・エヴァリスト・アルンス氏は兄だ。
カトリックの信仰を貫き、彼女が設立した貧しい子供のための人道支援団体「パストラル・ダ・クリアンサ」は世界でも最大級の小児保健、小児栄養団体に成長。大人も含む貧しい人達への人道支援活動は30年以上続けられ、パストラルが2001年、彼女自身も2006年にノーベル平和賞の候補に挙げられた。
彼女は常に地域と共に歩むことを目指していた。ボランティア協力者を育てては貧しい家庭の母親に下痢や栄養失調を克服するための指導を行わせ、子供の突然死を防ぐための寝かせ方指導なども行った。彼女達のブラジルでの活動地域は国土の72%に及んだ。世界では31万もの都市や地域で乳児死亡率を減少させたという。
彼女が亡くなったのは訪問奉仕中のハイチで大地震が起きた2010年1月12日。一生を救命と人道支援のために捧げたジウダ氏は、75歳で地上の生涯を閉じた。
1月18日にサンパウロ市セー大聖堂で行われた地震の被災者追悼ミサでは、先に挙げた計量スプーンや乳幼児の体重を測る秤などが捧げられた。
サンパウロ大司教区は死後5年後の2015年に正式な調査を始め、彼女を「神の僕」と認めた上で列聖への道を開いたが、国が英雄と認めたのは、死後13年も経ってからだ。
3月にサンパウロ市で起きた13歳の少年による学校襲撃事件の犠牲者エリザベッチ・テンレイロさんは、研究技術者を定年退職した後、教育への熱意から71歳になっても教壇に立ち続けた。不幸にも帰らぬ人となったが、その名は学校の傍の地下鉄ヴィラ・ソニア駅名に冠せられた。
人や社会のために尽くしても名前が残ることもなく、生涯を閉じる人も大勢いる。その昔覚えた「水を飲む時は井戸を掘った人のことを忘れてはならない」という言葉を思い出す。ジウダ氏を追悼し、その業績を称えながら、多くの人のおかげで今があることに思いを馳せたい。(み)