ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(226)
後に加藤と結婚したイツコさんから、二〇一〇年代に筆者が聞いた話によれば。━━
岡崎はユダヤ人の不動産屋で働いていた。加藤は、その前のペンソンで三日間、見張って岡崎の行動を観察した。よく判ったので、ペンソン代を払って、その不動産屋に向かった。
店に入って行くと、バルコンの向こうで岡崎が無意識に立ち上がった。加藤はバルコンを飛び越しながら三発撃った。偶然のことながら、弾は胸の同じところに当たった。倒れた岡崎の首筋の後ろの部分にトドメの四発目を撃ち込んだ。
イツコさんは結婚後、加藤が訪ねてくる昔の仲間と雑談中、事件の想い出話をするのを聞いていたという。
なお、別説によると、加藤は店に入って岡崎に向かい「オイ殺すぞ」と言い、岡崎が「アッ!」と立ち上がった。
この日、加藤は大きく長い数珠を襷掛けにしていたともいう。
他に、岡崎も拳銃を抜いた…といった類の話もある。
それだけ評判になったということであろう。
目的を達した後、加の足は自然に警察に向かった。
ほぼ同時刻。
襲撃側の平間俊男が、新田健次郎の弟の實を銃撃。實、死亡。
同じく前原昇が路上で、マリリアの西川武夫が経営するカーザ・オノ西川の支店の大原守郎を銃撃。守郎重傷。
平間の場合、最初、健次郎を狙った。が、不在だったため弟をやった。
前原の場合は、大原は巻き添えを食った。
西川については、既述したが、これ以前に二度狙われ、代わりの人間が犠牲になっている。これで三度目ということになる。
新田實と大原守郎は、敗戦派ではあったが、認識運動に関しては脇役だった。
このほか、数件の襲撃未遂があった。
警察は事件が起こるや、軍隊の協力を得て、地元の戦勝派多数を拘束した。
警察で加藤は酷く殴られた。
傍に敗戦派が居て、警官に金を渡しながら、
「もっとヤレ、もっとヤレ!」
とけしかけていた。体中どこも腫れあがって殴る場所が見当たらなくなった。それでも、それを探して殴った。
他の二人も逮捕され同様だった。
三人はサンパウロのDOPSへ送られた。

日本の宝石という雑誌に掲載の記事によれば、加藤は、
「日の丸事件以来、岡崎をやっつけなければ…ともかく、このままではいかんと思っていた。多血多感でワクワクする思いだった」という。
そのうちバストスの溝部事件、サンパウロの野村事件…と、次々と天誅が下った。(遅れをとった!)という思いに駆られていたという。
加藤は、これ以前に兄弟と共に、ビリグイの戦勝派グループに入っており、幾つかの事件を起こしていた。
警官に追われ、撃たれて負傷したこともあった。
その逃亡中、弟が逮捕され、兄の行方を言えと拷問を受けた。
逮捕の時、タチバナがカミニョンで、五人位の警官とやってきたという。またまたタチバナだ。大変な活躍ぶりである。
イツコ夫人によれば、ツッパンの襲撃計画はビリグイ・グループが加藤の逃亡中に決めたことであった。
加藤は後から加わった。
標的のリスタはすでに作られていた。その中に岡崎の名があった。これを誰がやるか、ということになった時、自分が…と言い出す者が居なかった。ために加藤が引受けた。
彼は体格がよく、口数少なく、静かな男だったという。
近くに住んでいた米田実という人によれば「アッサリしていて良い男だった」そうである。
襲撃者の三人の年齢は二十代から三十代だった。
被害者の三人も同年輩だった。
加藤たち決行者は、その後かなりの期間、未決囚拘置所にいたが、裁判を受けるために地元に帰った。
次頁の写真は、その拘置所に居た時の加藤である。写真を撮ったり、ボクシングをしたり、その環境は、四月一日事件直後とは随分、変わっていたことになる。
以前は被拘置者は人間扱いされていなかった。
なお、山下博美は「そのボクシングの相手を自分がしたことがある」と語っている。
山下はアンシエッタから、胃病のためサンパウロへ移され、拘置所にいた。
加藤たちがツッパンで事件を起こした時、平間の姉が警察に拘引されている。(つづく)