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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(254)

2025年9月24日

それから十年余、筆者が木村家を訪れた。

数章前から何度かに渡って記した木村家に関する話は、その時にきよみから聴いたものだが、彼女は最後にこう言った。

「私は、もう八十四歳。死ぬまでに、アノ時のことを、誰かに話しておきたかった…」

筆者は、コチアの最期については、数え切れぬほどの人に取材したが、両手を挙げて喜んだという人は初めてであった。

公平さを欠かぬため、敗戦派側の話も付記しておく。

当時、この地で敗戦派だった実藤亨(十一章で登場)によると、

「組合事務所の人間が、毎日、鉄砲を撃って威嚇したというような事があれば、近くに居た私の耳に入っていた筈だ。が、そんなことは聞いたことはない。

何か別の理由で撃ったのを、誤解したのではないか。

敗戦派が臣道連盟の人を圧迫して、組合から追い出したというような事もなかったと思う。いろいろ嫌がらせをしたというのも、疑問だ。

もっとも、木村さんの家の周囲は皆、敗戦派だったから、何かにつけて、そういう風に感じてしまうことはあったかもしれない。敗戦派には口うるさい婦人も一人居った。

しかし私の記憶では、むしろ連盟の方が強硬だった。貞治さんは、封建的で激しい性格だった。息子の正治さんも…」(貞治=きよみの舅)

立場を変えると、これだけ話が違ってくる。しかし、そういうものであろう。

また、当時、カンポスの邦人の結核療養所の職員だった坂根源吾の夫人(和子。二〇〇三年現在、八十歳)によると、源吾は敗戦派であった。活動家ではなかったが、脅迫状が三度来たという。

内容は短く、

「首をアルコールで洗って待っていろ」とあった。夫人は、

「ただただ、怖かった」

という。

脅迫状は、地元の戦勝派からであったろう。


臣連、分裂、自然消滅


次に臣道連盟のその後である。

ただ、これは複雑で名状し難い。

連盟は一九四六年四月、州警察による本・支部役員の狩り込みで、事実上の壊滅状態となっていた。

翌一九四七年二月、名義解省(消)宣言を出したが、既述した様に、便宜的措置とする含みを持たせていた…という観方もあった。この辺が曖昧である。

後記するが、理事長の吉川順治や専務理事の根来良太郎が、別々だが、建て直しを図っているから、やはり「含みを持たせていた」のであろう。

が、すでに内部崩壊が起こっており、分裂を続ける。

結局、いずれも一九五〇年代から六〇年代にかけて自然消滅した。

分裂の種子は、吉川が未だ拘置所に居た一九四六年の十月頃から播かれていた。

一部連盟員が、サンパウロ市内の簡易ホテル、クルゼイロを拠点として「有志」の名乗りで、独自で拘置所などに居る同志の釈放運動を始めた。この独自で…というのが右の種子である。

この有志たちはクルゼイロ組と呼ばれた。中内義繁(カンポス・ド・ジョルドンの連盟支部員。前章参照)などが、これに属していた。

彼らは釈放運動のため、連盟員を対象に、募金活動を始めた。

ところが、集めた金を、その目的外の、例えば彼らの飲食費にも使っている…という噂が流れた。

このクルゼイロ組、釈放運動をした割には、その名に光が伴わないのは、そのためであろう。

一九四七年二月、別の一派がクルゼイロ組に対抗する様に、国民運動本部なるモノを設立した。

これは臣連本部の職員だった朝川甚三郎らが作った。

が、クルゼイロ組と同じ名目で募金、似た様な使い方をしていたらしく、評判も変わらなかった。

ここで、時間を少し遡ると、朝川は前年の四月一日事件の直後、本部の役職員と共にDOPSに拘引・留置された。が、何故か直ぐ釈放されている。これは御真影を踏んだから…という説もある。(13章参照)

釈放後、朝川は臣連の本部に戻った。実は以前から、そこに家族と住んでいたのである。

十三章で登場したアリアンサの雁田盛重の手記によると、朝川はその頃、川崎三造という男と親しくなっている。川崎は後に名を売った詐欺師である。(次章参照)

二人は連盟本部から、日本大勝利のニュースを流し、

「近く、戦勝した日本軍が何万とやってくる。それを歓迎するために、連盟の青年部員を教練する必要がある」

と、地方の純朴な若者を何処かに集め、その教練なるものをした。(つづく)


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