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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(255)

2025年9月25日

ところが、木銃を担がせ「オイチニ、オイチニ」と、かけ声を上げながら行進させたというので、連盟員仲間からも「オイチニ組」と馬鹿にされた。

この朝川が、前章で触れた様に、サンパウロの拘置所を訪れ、吉川と根来に名義解省宣言を出させている。

ところが、便宜的措置とする含みについては、何故か連盟員に伝わらなかった…もしくは朝川により伝えられなかった。ために広く正式の解散と受け止められた。

朝川は、この宣言の直後、国民運動本部を作り、事務所を連盟本部内に置いている。

一九四七年六月、川畑三郎という人物がその本部に入った。

本部の運営を拘置所に居た根来に依頼されたという。

川畑は、それまでパラナ州の一寒村で病を養っていたということ以外、前歴については資料を欠く。

根来は、以前から川畑を知っており、高く買っていたようである。

しかし、この川畑、実は臣連の発足以来の在り方には批判的で、特に日本への引揚げ運動には「絶対不可」という信念を持っていた。

根来もこれを承知していた。

根来は、連盟の専務でありながら、その「日本への帰国あるいは大東亜共栄圏への再移住」という事業目標に反していたことになる。

川畑は本部入りをすると、自身の信念によって行動し始めた。

朝川が、これに追随している。彼が作った国民運動本部との関係については不明である。

それから三ヵ月後の九月、吉川が出所した。臣連本部に戻った吉川は、クルゼイロ組や川端・朝川らの動きを知り、愕然とする。

直ぐ勝手な金集めを止めるよう、両派に要求するが、両派とも聞き入れない。

さらに「臣道連盟の名義解省宣言の消滅」を、連盟員に通達するよう両派に要求するが、これも拒否される。

吉川は地方から、雁田盛重を含む幾人かの連盟員を呼寄せ、協力を得て、自分の方針を実現しようとする

しかし「連盟が解散した以上、吉川は関係ない、自分達は独自の組織を結成する」と撥ねつけられる。

ここに至り、吉川は両派の主だった十六人を除名処分に付す。

朝川は、連盟本部から退去を命じられた。が、反抗して、吉川が使用していた洗面器に、糞をたんまり垂れこんだりした。

一方、連盟の建て直しを図る吉川の動きがDOPSへ筒抜けになっていた。これが朝川の情報提供によるものであった━━と雁田手記にはある。

雁田は、そのことをDOPSの刑事から教えられた。刑事は、

「密告者は、同志から出る」

と忠告したという。

十一月、中内たちのクルゼイロ組は、日伯産業振興会なる団体をつくった。州知事アデマールを総裁に迎え、各地に支部を置いた。

翌一九四八年二月、根来が出所した。三月、川畑や朝川が、その根来を理事長とする新団体をつくった。その団体名がナント「臣道連盟」だった。

要するに、そういうことだったのである。つまり、吉川に反旗を翻すはかりごとが進んでいたのだ。

筆者は遥かな後年、ある旧連盟員を自宅に訪れたことがある。その時、壁にかけてある額が目についた。その連盟員を、臣連の何処かの支部長に任命するという内容の書が、嵌め込まれてあった。

末尾に「臣道連盟理事長 根来良太郎」とあった。

半世紀以上経っているのに、誇らしげに、額は掲げてあった。

根来は、拘置所内では、傍も感心するほど病身の吉川に尽くしていた。が、それは見かけだけのことだったのである。

かくして臣道連盟は、三派に分裂した。

吉川派は本部を移転し、職員一人をおき、質素な機関紙を発行した。やがて渡真利成一も出所、吉川の下で再起を図ろうとするが、雁田たちの反発があり、排除される。

その後、同派は資金不足から、衰えて行く。数年後、本部は吉川の自宅へ、さらに一九五一年頃、ルセッリアの河島作蔵(理事)の自宅へ…と移された。

吉川はサンパウロを去り、パラナ州アサイに居った長男の家に移った。

雁田手記によれば、たまに相集う同志は年々減り、終戦十年後の一九五五年頃には、数人になっていた。

根来派は一九四九年末、川畑三郎が中心になって昭和新聞を発刊した。(つづく)


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