site.title

ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(256)

2025年9月26日

川畑は後年、発刊の動機を、

「当時、戦勝派は、邦人社会を代表する知識層、実力者層を背景とする敗戦認識運動の積極的攻勢の前に『狂信の徒』『愚民集団』の嘲罵を一方的に浴びながら、一矢も酬いる術もなかった。これは戦勝派の思想、心情を世に訴える言論機関を持たなかったからである」

と記している。

その川畑は、前記の様に日本への引き揚げは絶対不可の信念を持っていたから、彼の啓蒙によって、戦勝派の間には永住論が盛んになった。

ところが、ここに異変が起こる。彼らの総帥である根来自身が一九五二年、日本へ引き揚げてしまったのである。

根来は一部の人間には、人格者という印象を与えた。が、実際は、これまで記した様に変節を繰り返している。

無論、人間誰しも表もあれば裏もある。これも、その一例に過ぎなかろう。しかし、その日本への引き揚げは、根来派臣連に対する社会的評価を失墜させた。

昭和新聞は、数年で発行を停止した。

クルゼイロ組の日伯産業振興会も、派手にスタートしたが、それだけのことで、たいしたことはできなかった。

この間、根来派臣連とクルゼイロ組の青年達が手を組み、全伯青年連盟を結成している。

青年連盟は、各地から代表選手を集め、相撲大会を毎年、開催した。が、一九六〇年代に活動を終えた。

こんな具合で、結局いずれの派も先細りとなって行き、消えてしまった。

日系社会史上、臣道連盟はテロ組織という凄まじい名を残した。

が、それは全くの虚構であった。幻の様なものであった。

しかし、歴史を揺るがした。

そういう意味では、全く不可思議な存在であった。

なお吉川順治は、その後、サンパウロに戻り、子供たちの家に同居、一九六五年、八十七歳まで生きた。

身体は最期まで不自由で、昼も椅子に寄りかかって眠っていることが多かった。

家人の話によると、拘置所から仮釈後、DOPSの刑事が来て、この老病人を連行して行くことが何度もあった。不自由な身体で、これは苦痛であった。

そういうこともあってか、臣道連盟の話が出ると、吉川は様子がおかしくなった。ために家人は連盟関係の客は謝絶したという。

吉川にとって、連盟がテロ組織と誤認されて以来の出来事は、何もかも不快の一語に尽きたであろう。


日本でも蔓延った状況誤認


連続襲撃事件は、日本でも種々報道された。

いわゆる〝勝ち組負け組抗争〟としてブラジルの日系社会を嘲笑う記事が新聞や雑誌に載った。

殆どが、事実とは懸け離れた内容であったが、信じ込まれてしまった。

中でも代表的な作品が、大宅壮一のそれである。

大宅は一九五四年、ブラジルを訪れている。日本へ帰国後『世界の裏街道を行く』という南米旅行記を発表、その中で、サンパウロで耳にした話を紹介している。

以下は、その主たる部分である。

「〝問答無益〟の勝ち組テロ…(略)…ここでも〝勝組〟の話が出た。敗戦と同時に御真影を便所にたたきこんだものも、臣道連盟が誕生したときいて、たちまちこれに参加した。かれらは『オキュパイド・ジャパン』というのを『日本の占領下』という風に、逆の意味にとって宣伝した。また『皇后がマッカーサーの妾になった』というデマを〝負組〟がとばしているというデマを勝組がとばして、大いに敵愾心を煽り立てた。〝勝組〟の生まれた動機というのは、上海、香港から持ってきた日本の百円札にある。国際的に日本の敗戦が決定的と見られたのは、昭和二十年一月、米軍がフィリピンのルソン島に上陸したころからで、当時上海、香港では日本の円が暴落し、百円札が六、七円になった。これに目をつけたのがユダヤ商人で、ブラジルへこれを大量にもちこんで、祖国の絶対不敗を信じこんでいる日本移民に売って大もうけしたのである。しかし全部売りきらぬうちに、日本が無条件降伏をして、紙屑同様になってしまった。これをゆずりうけた日本人のボスが、売るために考案したのが“日本は勝った”という宣伝である。かれらは“神州不滅”の思想を徹底的につぎ込まれていた日本人青年をあつめて、つぎのようにいった。(つづく)


ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(255)前の記事 ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(255)
Loading...