ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(257)
『日本が負けたなどというのは、アメリカの謀略で、日本人でいてそういうことをいいふらすのは、アメリカの第五列である。今や祖国の青年たちは弾を抱いて敵機や敵艦に体あたりしているが、ブラジルにおける諸君の神聖なる義務は、この国賊どもに天誅を加えることだ。諸君が身を挺してこれを決行するならば、その功績はさっそく日本政府に伝えられ、やがて金鵄勲章となってかえってくるであろう』
この目的を遂行するために組織されたのが〝臣道連盟〟である。そこでかれらは〝負組〟のリーダーと目されている人々のブラック・リストを作成し、斬奸状を送りつけ、手わけしてこれを襲撃した。そのやり方は『五・一五事件』そっくりで、二言三言話した上、〝問答無益〟といってピストルをぶっぱなしたのである。
かくてたちまち二十人ばかりの生命が失われた。こうなるともう〝勝組〟の天下で、〝負組〟の方はシュンとなって、ものをいわなくなった。これにつれて百円札も次第に値上りして、最高三百五十円くらいまでいった。〝負組〟に属しているのは主としてインテリで『敗戦の現実を認識せよ』と主張していたので〝認識派〟とも呼ばれている。〝勝組〟は「この認識野郎め!」といった調子でこれをののしっている。〝認識〟することがここでは悪徳になっているのだ」
この大宅の記事は「当事者に取材する」「裏をとる」という原則を、まったく外している。誰か第三者に聴いた話を、そのまま書き写しているだけである。
しかも、内容は荒唐無稽な作りごとである。(その理由は、殆どを十一章以降で記述済みだが、まだ触れていない百円札…云々については次章で取り上げる)
しかし大宅は、日本の評論家としては第一人者であった。
ために、記事は日本では、そのまま受け入れられ、さらにブラジルの邦人社会に跳ね返って来ると「そんな偉い人が書いたのなら、やはり、その通りだったのだろう」と思った向きも多かった。
大宅が来た一九五四年といえば、連続襲撃事件の発生から八年が経っている。襲撃決行者の裁判も終了、判決が出た後である。臣道連盟の幹部も不起訴になっていた。その他四百数十人の戦勝派も同じだった。
しかるに右の様な嘘が大宅に吹き込まれている。吹き込んだ側は裁判所の決定を知らず、事件当時の、ポ語の新聞記事や市井に流れた噂を信じたまま、面白い話を聞かせてやろう…位の気分で話したのであろう。
大宅は、それを検証することなく記事にしている。
なんとも軽率な仕事ぶりである。
少なくとも臣連の誰かに会って話を聴くべきであった。が、記事を読む限り、会った様子は全くない。
この大宅より二年前、高木俊朗という作家がサンパウロを訪れ勝ち負け抗争を取材している。
それが一九七〇年に朝日新聞から『狂信』という書名で出版された。
内容には参考になる部分もあるが、逆の部分も多い。
第一、書名の『狂信』そのものが間違っている。この狂信という言葉は、内容からすれば、戦勝派が祖国の戦勝を狂信、様々な事件を起こしたという意味である。
が、そうではないことは、十一章以降、詳しく記したことである。
記事の多くは、敗戦派のパウリスタ新聞の記者たちの話に頼り、それを基に構成している。しかし当時の同紙の記者は、社の方針で戦勝派の取材をしていなかったのだから、正確なことを高木に話せるわけはない。
記事中には、その記者たちの知ったかぶりの話がアチコチに出てくるが、殆どがピント外れの内容である。
結果として次の様なトラブルも起きている。
本の中で戦勝派の一不動産業者が詐欺師扱いされており、された業者は憤慨して日本まで行っている。高木を告訴するためであった。その結果は、後年、筆者が親族から聞いた話では「こちらの満足の行く形で落着した」という。(つづく)