ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(258)
また次の様な記事もある。
前出の朝川甚三郎から高木が聞いた「朝川と山下博美の師弟ドラマ」的な話だ。
筋書きが、まるで昔の田舎芝居か何かのようである。
山下は憂国の青年、朝川はその師という役回りになっている。
なぜ師かというと、朝川がツッパンにいた頃、指導した精神教育の教え子が山下だというのである。
山下は朝川を強く慕っており、その教えを実行しようとして決起したことになっている。以下はその粗筋である。
一九四六年三月、サンパウロへ出た山下は、臣道連盟の本部に朝川を訪れる。
「先生、われわれは決心してきました」「何をしようというのだ、お前らは」
朝川は驚く。そのあと、芝居がかった会話が交わされる。
そして四月一日の野村襲撃の後、山下が連盟本部の扉を激しく叩く。朝川が開く。そこに乱闘後の凄まじい姿の山下が居た。
「朝川さん、とうとう、やってしまいました」
朝川は、この言葉をいつか聞かねばならぬと予期していた。だが、できることなら、と神仏に念じていた…云々。
朝川は「まあ、中にはいれ」と、山下をうながし、自分の服を与えて着替えさせ、乱れた髪に櫛をいれてやった。久しぶりに師弟の情愛を感じた。
心の中では「よくやった」と言いたかったが、口には出せなかった。
山下から襲撃の模様を聞いた。話をしているうちに、山下は興奮して涙を流し、朝川もまた、涙を流して聞いた━━。
右の顛末を、朝川は、むせび泣きながら高木に話したという。
が、当の山下は、筆者に、これをすべて否定している。
「ツッパンで朝川に会ったことはない。サンパウロへ出たとき、新屋敷か誰かに案内されて、挨拶の様な感じで臣道連盟の本部へ行った。そこに朝川がいたが、大した話はしなかった。
四月一日、事件の直後もう一度行ったが、野村宅からの帰途、道に迷ったので、近くに連盟の本部があったことを思い出し、道を訊きに寄った。戸口で一寸話しただけ。
日高さんも、この本を少し読んだが、アホらしくなって止めた、と言っていた」
要するに朝川は、自分で自分を主役とするドラマをつくりあげて、それに陶酔していたのである。
高木は右の記事を(朝川は話を作っている)と気づきつつ書いている。が、これほどのヒドさとは知らなかったであろう。知れば一行も書かなかった筈である。
しかし、こう長々と続くと、読む方はかなりの部分は事実だろうと思ってしまう。
高木も日本では相当有名な作家だった。
それが大宅と共に、こういう調子だった。
ために日本でもブラジルの邦人社会に対する状況誤認が蔓延ってしまった。
誤報にウンザリ
ここで話は逸れるが、誤報に関して、山下が、うんざりした表情で嘆いていたことがある。
余りにも多い…というのである。
例えば、右の連盟本部に寄った時の山下の姿に関して、ずっと後年、邦字紙に載った関連記事の中に要旨、
「ある女性が野村氏を殺害して逃げてくる山下広美の姿を目撃しています。当時は空き地が多く、区割りの有刺鉄線にひっかかり、服も破け、靴がぬげても拾おうともせずに連盟本部に駆け込んだ」
という一節がある。(つづく)