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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(259)

2025年10月2日

博美を広美と間違えている点から観ても、慎重さを欠いた記事であるが、その内容について、当の山下は、こう筆者に話している。

「そういうことはなかった。私は、普通の道を普通に歩いていた。連盟本部は野村宅から相当離れていたから、そういう意味でも、駆けていたということはない。

ともかく私に関しては、事実と違う噂が幾つも流れていた。私が、仮釈でデテンソン(拘置所)から出所した時、姉は『お前が、何処かで乞食をしている姿を見た、と人から聞いた』と言っていたが、その話も、その類いのものでしょう」

日高も、自分たちについて書かれたものには目を通しているが、どれも事実とは余りにも違い過ぎるので呆れるという。

しかも取材にも来ないのに、実名を使用しているので、不快極まるようだ。

連続襲撃事件は、これまでに何度も繰り返し記したことであるが、状況誤認に始まり、かつその誤認の連鎖によって、激化・拡大している。報道関係者も驚くほど状況誤認を犯している。そして誤報をしている。

それは、ブラジルでも日本でも同じである。


皮肉な結末


終戦から年を経るに従い、敗戦派の数は邦人社会に於ける比率を急速に高めて行った。

その中で、戦勝派と敗戦派の抗争、連続襲撃事件が時に振り返られることがあっても、敗戦派の観方、つまり通説・認識派史観のみが取り上げられ、それが正論となった。

これは一つには、日本の敗戦が誰の目にも明らかになり、戦勝派の言うことなど、聞く耳を持たぬというのが、一般的風潮になっていたことにもよろう。

戦勝派も、敗戦の事実を悟り、沈黙してしまった。

一九五四年、サンパウロ創立四百年祭が盛大に挙行され、邦人社会も参加した。これを機に戦勝派と敗戦派の融合を図ろうとする動きが起こり、両派の抗争には、もう触れまいとする空気が、大勢を占める様にもなっていた。

因みに邦人社会という言葉は、戦後余り使われなくなり、代わって、戦前末に生まれたコロニアという言葉が一般化していた。改まった場合は日系社会だった。

そのコロニア、日系社会の公的な事業、行事は殆ど敗戦派が仕切った。

とすれば、認識運動を推進し、自らも狙われ、身辺に犠牲者を出しつつ戦い、臣道連盟を解散に追い込み、戦勝派を消滅に向かわせた藤平正義、森田芳一は英雄ということになる。

しかし、そういうことにはなっていない。

一九六六年、筆者がブラジルに転住して来た当時、コロニアには、二人に関し…何というか、微妙な空気があった。それが何なのか暫く判らなかった。が、その後、次第に「二人が戦勝派から恨みを買っているから、余り表には立たせまい…」とする配慮と察した。

藤平は十一章で記した様に、スポーツ活動を通じて、色々な有力者に接近していた。その一人であった非日系の高級軍人と組んで政府の大物閣僚に接近、日本からのタンカー輸入という大型商談をまとめたこともある。政商と呼ばれた。

そういう面での有力者への接近の仕方の巧妙さは、人が驚くほどであった。(つづく)


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