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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(260)

2025年10月4日

後年のことになるが、日本から帰って下院議員になっていた平田進(九章参照)の紹介で、運輸大臣に会った。その平田が、後でこう呆れていたという。

「二度目に運輸大臣に会った時は、藤平は俺より親しくなっていた」

藤平はしばしば日本へ行き、料亭で豪勢に遊び芸者買いをしていたという。その芸者買いを教えて貰った人の話である。

筆者は、一九六〇年代の後半以降のブラジル豊和工業の経営者としての藤平を知っている。その頃は威勢が良かった。

ただ、権威者、例えば日本から来た有名な官界の高官に、人前で、中身は宝石らしい土産物の小包を持って擦り寄って行くようなところがあった。一方で、嫌いな人間には、露骨にその感情を顔に、言葉に現した。

しかし切れる人物という印象であった。

最盛期には、サンパウロの最高級住宅地モルンビーに邸宅を構えていた。

が、こういう話もある。

ある時、日本総領事館が、終戦直後の日系社会で起きた諸問題の調査をするという企画を立てたことがある。その時、藤平が激しく反対した。そんなことより経済協力を…というのがその主張であった。

筆者は、調査などすれば、自分がやったことが表沙汰になってしまう…と慌てたのであろうと読んでいる。

結局、この企画は実現しなかった。

藤平は、最終的には一九七〇年代に破産し、一切を失って死ぬ。夫人が女中奉公をしていたという後日談もある。

森田芳一は、表舞台に立つことはなく、地味な存在のまま消えて行った。

日系社会の微妙な空気の中にいた…といえば、そういう人間がもう一人居た。サンターナである。日本語の天才と言われたバイアーノである。

彼には、その能力のほか、DOPSの通訳をしながら、敗戦派のために役立ったという〝功〟もあった。

従って以後、敗戦派の時代が来たコロニアでは、大事にされるべきであったろう。が、されてはいない。

筆者には、彼に関して一つの記憶がある。

一九六〇年代末のある日、邦人社会の中心機関として成長中だった文協の事務局に、取材のため入って行った時のことである。

一人の初老の男が、藤井卓治事務局長の机のそばのソファに腰掛け、筆者には背を向ける姿勢で、話をしていた。その男が、

「…では、私に、コロニアはもう用はないのですネ」

と呟きながら、肩を落とした。

話す日本語といい、漂わす雰囲気といい、完全な日本人であった。

が、立ち上がって、こちらに向けた顔をみると、ブラジル人だった。

不審に思って、後で藤井に聞くと、

「アレはサンターナと言って、昔DOPSで…」

とまで言って、複雑な笑いを浮かべ、言葉を濁してしまった。

後で知ったのだが、サンターナは仕事を探しに来ていたという。これには驚いた。日本語の天才と言われたほどの才子が、それを生かす場を失っていたのである。

ともかく、右の三人は、貢献度の割には、コロニアから報いられることなく、逆に、よそよそしく扱われていた。

浮世のことは、こういう具合に、皮肉な結末で終わる場合が少なくない。

ともあれ、これで連続襲撃事件に関する筆者の検証は、一応終える。

内容は、通説・認識派史観に極めてきびしいものになってしまったが、これは真実を追究して行く過程で、自然そうなったのであり、初めから意図したことではない。自分でも意外であった。

世間には「お前は勝ち組か」と筆者を非難する向きもあるが、それは全くの誤解である。

筆者は、戦勝派でもなければ敗戦派でもない。中立的立場から日系社会史を研究している人間に過ぎない。

それはハッキリと、ここで断わらせていただく。(つづく)


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