ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(264)
一つ参考になる話がある。
終戦後のサンパウロに、カチカチの戦勝派と言われたKという人物がいた。商売で一応の成功を収めていた。非常な愛国者で、周囲がなんと言おうと、日本の戦勝を信じていた。
一九五二年、ブラジルと日本の国交が回復した時、帰国した。出発前、自分だけでなく甥にも手伝わせて、円を買い集めた。新円への切り替えは知らなかった。
為替業者から買ったが、サンパウロでは欲しいだけ入手できなかったので、甥がリオへ行って買った。
値段は紙切れの様に安かったという。そういう値であれば、犯罪性は薄れよう。古銭の蒐集を趣味とする人間もいる。為替業者は、公然と売っていた様である。
Kは、それを持って出発した。が、羽田に着いてタクシーに乗り、料金を払う時、持参した円を出すと、運転手から「その円は、もう通用していない」といわれた。
Kは衝撃を受け、日本が確かに戦争に負けたことを悟った。男泣きに泣いた━━。
これは、その甥から筆者が聞いた話である。
この話の中の「サンパウロでは欲しいだけ入手できなかった」という部分に注目する必要がある。円は市場には、元々多くは存在しなかったのである。
戦中・戦後に存在した円は、やはり戦前に支那から流入したものであったと観るのが自然である。
戦中・戦後、巨額の円が存在したという話は不自然過ぎる。
しかし、円売り問題は、その後も、時を置いて、屡々亡霊の様に姿を現し、世間を騒がすのである。
一九五四~五年、サンパウロで、一巻の映画フィルムが製作された。
戦勝派の有志が、円売りを主題に作った『南米の曠野に叫ぶ』である。
映画は、円売りの一味が居って、大規模にそれを売っているという内容で、その一味の主要人物を、実在の人間をモデルにして構成していた。
首謀者は、認識運動の推進者宮腰千葉太、幹部は同じく藤平正義、その子分がタチバナ・ヨシオ、加担者が水本、武田という顔ぶれだった。
しかも円売りは敗戦認識派の陰謀であった、と告発する筋書きになっていた。
この映画、結局、上映は殆どされなかったという。モデルにされた当人たちが激怒、上映を阻んだのであろう。
一九六〇年代、日本で流行作家の梶山秀之が週刊文春に「ブラジル〝勝ち組〟を操った黒い魔手」というタイトルで、円売り事件を材料にした記事を書いた。
一九八一年、サンパウロ大学の教授斉藤広志が、同年出版された『山本喜誉司評伝』の中で、蜂谷専一にこう質問している。
「…一九四七年の四月に資産凍結解除運動のグループ、懇話会が結成された…(略)…それについて是非尋ねたいことがある。今まで発表されていませんが、一体この運動の資金はどこから出たのですか」
対して蜂谷は、
「山本(喜誉司)さんはあらゆる物品を売り、私もめぼしい物を売って、両方で捻出しました。詳しいところまでは私もよく分らないが、山本さんは随分苦労していたようです」
と答えている。
斉藤の言っているのは(十章で記した戦時中ブラック・リストにリスト・アップされた)日系企業の資産の凍結解除をブラジル政府に働きかけた運動のことである。
山本と蜂谷が中心になっていた。
斉藤は、さらに翌一九八二年十月一日のパウリスタ新聞に掲載された座談会の記事の中で、
「円売り問題は永久に、葬られるでしょう」
と、意味ありげな発言をしている。
斉藤のこの二つの発言を結びつけて、凍結解除運動の資金の出所を、円売りと推定する観方もあった。
やはり一九八二年五月から翌年にかけて、前記の映画フィルムがビデオ・カセットになってコロニアに出回った。(つづく)