ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(305)
偶々別の部屋へ行こうとして廊下を歩いていた井上とこちらの社長がすれ違い、招き入れた…と記憶している。
筆者の真向かいの席に座ったが、その瞬間、
「こりゃ、なるほど、噂のように貴公子だ!」
と、ビックリしたものだ。端正な容貌、人柄は温和、姿・形の中に、品と格が匂っていた。年齢的には四十代後半であった筈だが、ひと回りは若く観えた。
貴公子という単語は、もっと歳下の人間を指すのだろうが、そう形容しても、おかしくない雰囲気があった。
後日、コチア関係の古い資料に目を通すと、組合本部を訪れた日本の皇族やブラジル政府の要人を、井上が応対した折の写真が、掲載されていた。誰と並んでも様(さま)になっていた。
頭脳の優秀さも生まれつきだった。子供の頃から学校の成績が良く、名門サンパウロ法科大学を上位の成績で卒業していた。
これだけの運の持ち主は、滅多に居ない。
人望もあった。
組合員や職員は、彼を「ゼルヴァジオ」「ゼルヴァジオ」と親しげに呼んでいた。面と向かえば「理事長」であったが…。
邦字紙の記者もそうしていた。
本稿でも以下、ゼルヴァジオと記す。その方が自然である。
当時、筆者はホンの数回、取材でコチアに出入りしたに過ぎない。その折、強い印象を受けたのは、組合員、役員、職員が「コチア人」ともいうべき独特の雰囲気を漂わせていることだった。
特に古参の組合員は野性的で言葉づかいが荒々しく、話し相手を指して「ボッセッ(お前)」という単語を頻りと口から発していた。組合事務所の壁上で肖像になっている下元健吉の生前の口癖が移ったらしい。
彼らコチア人は、ゼルヴァジオを自慢にしていた。特に五十歳前後の戦前一世が、それ以上の感情を寄せていた。組合を語れば、ふた言目には「ゼルヴァジオが…」「ゼルヴァジオは…」だった。
それは、創業者に心酔する人々が、二代目を守り立てている風情があった。
この人々が、産青連運動で下元健吉の電磁波を浴びた、かつての盟友たちであった。無論、敗戦認識派の側に居った人々であるが…。
コチアには、もう一人スピーディーに昇進した二世が居た。安田ファビオ良治である。
笠戸丸以前のパイオニア安田良一の長男で、一九二二年ピンダモニャンガーバに生まれた。ピラシカーバ農大を中退、コチアの組合員だった父親の農場で働く内、専務の下元健吉を渉外面で助けるようになった。
一九四八年、二十五歳の若さで理事に抜擢された。これも下元の若者起用の一例である。普通「ファビオ」と呼ばれた。
十二年後に、専務理事に就任。その時、下元は故人になっていたが、理事長=ゼルヴァジオ、専務=ファビオという人事は、下元の構想…という説があった。
実際、こういう話がある。ファビオが、自分が管理する部門で従業員の不正事件が起き、辞意を表明したことがある。が、役員、有力組合員の多くが、承知しなかった。
総会の役員改選では、ゼルヴァジオとファビオは代えないという不文律のようなものもあった…という。
コチアはゼルヴァジオ──ファビオの名コンビで経営されていると観測する人もいた。
これを補佐する役員は一九六〇年代、往年の産青連の盟友たちの名前が増えている。向井恒夫、相川政男、高草格、黒川正己、小笠原一二三、山本勝雄、遠藤吉四郎…。
この経営陣が、最も力を入れて推進したのが、総合病院の建設であった。
前章で紹介した下元の話の中に、
「保健は、過激な労働を強いられる農業者には、極めて重要である。組合病院を建てるところまで、行かねばならない」
という一節があった。
病院は、その性格上、下元が目指した新社会のシンボルになろう。
つまり経営陣は彼の志しを具体化しようとしたのである。
特に、ゼルヴァジオは、自分を引き立ててくれた下元に深く感謝しており、その遺志を引き継ぐことを使命と自覚していた。
理事会は、事業計画の中に病院の建設を盛り込んだ。
組合員を会員とするコペルコチア共済会を設立、これを経営体とし、八千平方㍍の用地を取得、病舎用ビルの建築に着手した。
計画では、九階建てで一八〇人の患者を受け付け、従業員は二五〇人、常勤医師五〇~一〇〇人という規模であった。(つづく)









