ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(307)
谷垣は、そういうゼルヴァジオが面白くなかった。
コチア青年のトラブルは続いた。
深刻だったのが、自殺の続出であった。最初のそれは五八年に、サンパウロ西方ほど遠からぬ地で起きた縊死である。
遺書があり「自分をこんな所へ送り込んだ」人々への恨みを書き連ねた上「誰かを道連れにしてやる」と記してあった。
ところが、その葬式の参列者の乗った車が事故を起こし、一人が死亡、数人が負傷してしまう。
「なんとも後味の悪いできごとだった」と地元の人は述懐する。
遺書の中の「こんな所」というのは、就労先の組合員農家のことである。
この自殺者は、青年の多くが着伯後味わったショックを、代弁したとも言える。
彼らは広大な大平原、燦々とふり注ぐ日光…というイメージを抱いて、日本からやって来ていた。ブラジルである以上、そう思い込んでいたとしても当然であろう。
ところが、就労先は日本の山村と変わらぬ狭苦しい山中であり、住む家は小屋同然、晴天の日でもない限り、鬱陶しさが身を押し包んだ。
給料は極端に少なく、仕事は重労働だった。
山の中に組合員が居たのは、借地代が安く、空気も冷涼で畑に病気が出にくいという利点があったからである。
家が小屋同然だったのは、当時の営農は、土地を転々として変わる移動式だったためである。組立ても解体も簡便である方がよかった。
労働条件は、予め日本の募集機関を通じて知らせてあった。
少なからぬ行き違いが生じていた。しかし、それが青年たちにショックであったとしても、自殺まで…というのは極端である。その首を吊った青年は、以前からノイローゼ状態だったという。
ところが、他にも同種の青年が少なからず居った
自殺は、最終的に三〇余人を数えた。導入数、計二、五〇〇余人中のそれだから、比率はかなり高い。
後に組織され、現在も存続するコチア青年連絡協議会の事務所の資料箱には、その自殺報告書の写しの一部が保存されている。
六十年代半ばのモノが多い。
報告書は当時、組合から総領事館に提出されたものである。
その内容は、山中が作成、署名はゼルヴァジオがしている。その署名をする時、どう思ったであろうか。
組合内部には導入継続の反対論、青年は相次ぐ自殺…。
前章で触れたことだが、六六年、コチア青年の導入は翌年を最後に、打切りと決まった。第二次計画の途中であり、導入許可枠には、未だ大分余裕があった。
理由は、日本側での応募者の枯渇…と説明されたが、自殺の多発も影響していた筈である。
打切りの時、山中はコチアを追われている。そのことについて語る人々は、誰もが追放者として、谷垣の名を上げる。
谷垣は、それから暫くして専務理事になっている。
既出の「当時、組合本部の中枢近くで勤務していた元職員」によると、組合の定款の中には、職員は理事になれないという意味の項目があった。が、谷垣が工作して改定、自分が専務になってしまった──という。
谷垣が、果たして、そういう職責に向いた人であったかどうか、筆者は甚だ疑問に思ったものである。
接触の機会は殆ど無かったが、諸材料から判断して、その器とは思えなかった。
筆者は、この谷垣という人は「コチアは、下元専務と俺たちがつくった。経営の後継者は二世であり、戦後移民、コチア青年ではない」という意識が強かった、と思っている。
当時、コチアでは、役員・幹部職員の人事に於ける戦前一世から二世への流れが、鮮明になっていた。谷垣が、そうした形跡もある。
これは、志しあるコチア青年を失望させた。彼らは、コチアの後継者育成が、自分たちが導入された目的と思っていた。現に、青年たちが乗った移民船が、サントスの岸壁に着く度に、出迎えた山中が船中に乗り込み、全員を集めて、
「君たちは、コチアを受け継ぎ、発展させるために来た」
と、鼓舞していた。
その言葉は、将来の経営への参画も意味していると、聞く者は受け止めた。
が、現実には、そうではなさそうだった。
とすると、青年の役割は「離農する二世の穴埋めのため」でしかない…ことになる。
それと、彼らの多くはファゼンデイロ、大農場主を夢見て来ていた。しかし、その可能性は(前章で記したように)下元自身が否定していた。
そういうことなら、何もブラジルまで移住してくる必要はなかったのだ。
青年たちに「組合離れ」現象が生まれ、それは絶えることなく続いた。(つづく)









