ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(308)
下元が生きており、かつ、その新社会構想を彼らに説き続け、経営参画の道も約束していたら、こうはならなかったであろう。産青連の場合と同じく、燃え上がったであろう。
が、その早過ぎる死が、成行きを狂わせた。
そういう状況下、ゼルヴァジオは最後まで──組合を離れてしまった者も含めて──コチア青年に気を使い、彼らのグループから何かを頼まれれば、出来るだけのことをしようとした。
が、それに、谷垣は警戒の目を光らせ続けた。専務時代も、その職を離れた後も、そうであった。
以下、六〇年代以降も含めての話になるが。──
ある時、ゼルヴァジオが青年グループのため助力しようとしたことがある。それを知った谷垣がとんできて、血相変えて怒鳴った。
「ゼルヴァジオ!」
面と向かって呼び捨てである。
その声が役員室の外まで響き、驚いた秘書が救いを求めて走り回った。
そういうことが二度、三度とあった。
これは、ゼルヴァジオには屈辱として胸中に残った。
「コチア青年のことは、歯を食いしばってやった」
という一言を残している。
谷垣はコチア青年以外のことについても、うるさく干渉した。
ゼルヴァジオは、よく、
「俺は、結局、二代目なんダヨナァ…」
と、ぼやいていた。
筆者は、ゼルヴァジオ夫人に、
「ゼルヴァジオと谷垣の仲は良くなかった?」
と聞いてみた。
すると、
「ファビオとの間ほどでは、なかったけれど…」
と認めていた。
積極果敢…の実際
次に、前記した積極果敢な事業展開であるが。──
この表現は組合本部が、そういう方針をとって主導した様な印象を伴うが、実際はそうではなかったという。
まず北パラナ、南パラナ、マット・グロッソ州南部のそれであるが、当時の中堅職員たちの話によると。──
北パラナに於ける事業所の急増は、現地側の思惑によるもので、本部は後からそれを認めたに過ぎない。
他地方の組合員間でも、評判はよくなかった。
詳しくは後述するが、事業所の急増は組合員のそれも伴い、組合本部への発言力を強める。
特定の地方の急激な発言力の強化は、相対的に他地方のそれを弱め、バランスを崩す。
南パラナへ前線が伸びたのは、一部の組合員が自主的に入植したのが始まりであった。
最初、サンパウロ方面から腕利きのバタテイロが種芋(バタタの種子)づくりにカストロに入植した
が、青枯れ病が出てしまった。やむを得ず食料用のバタタとしてサンパウロの市場に送ったところ、好評で人気銘柄となった。
カストロの事業量は急増、コチアの全事業所中、最大になり、営農前線の花形として、持て囃されるようになった。
すると「カストロでできるなら、その南でも…」と、組合員がポンタ・グロッサやグァラプァーバへも〝遠征〟した。
マット・グロッソ南部の場合も、南パラナと似ていた。
最初、組合員が入植、後に施設の設立を組合本部に要請した。
が、コチアの定款では、ここは事業地域に入っていなかった。
ために井上清一総務部長らが工夫を凝らし、地元に小さな組合をつくり、コチアと業務提携の形を整え、施設をつくった。その組合が、コチアに(定款改定後)加入した。
かくの如くで、三地方での事業展開は、いずれも、まず現地側や組合員が動き、組合本部は、それを追認あるいは協力した…というのが実態である。
南パラナやマット・グロッソ南部の場合は、本部が随分骨を折った部分もあり、それだから出来たとも言えようが…。
以下、余談になるが、右に井上清一という名前が出た。この人は、戦前、下元健吉の片腕として産青連の指導に当たった。
戦後のこの頃は、幹部職員として、組合員や従業員の衆望を担っていた。
「キヨカズさんが専務になっていたら、コチアの歴史は変わっていたろう」
という声もある。
事実、専務理事に推す動きがあった。が、同僚であった谷垣皓巳が、定款の「従業員は役員にはなれない」という項目を持ち出して反対した。
ために井上清一専務案は流れた。
ところが、前記の様に、その後、谷垣が定款を改定して、自分が…というナントモ変なコトが起きている。
話を戻すと、やはり「積極果敢な事業展開」の内、サンパウロ、リオ両州での営農団地の造成…こちらは確かに組合本部が主導の仕事であった。
しかし、これは周知のことであるが、失敗に終わり、入植者は撤収している。(つづく)









